て出て来た者を見れば例の日の丸の紋を染抜いた首の持主で、空嘯《そらうそぶ》いた鼻の端《さき》へ突出された汚穢物《よごれもの》を受取り、振栄《ふりばえ》のあるお尻《いど》を振立てて却退《ひきさが》る。やがて洗ッて持ッて来る、茶を入れる、サアそれからが今日聞いて来た歌曲の噂《うわさ》で、母子《おやこ》二《ふたつ》の口が結ばる暇なし。免職の事を吹聴《ふいちょう》したくも言出す潮《しお》がないので、文三は余儀なく聴きたくもない咄《はなし》を聞て空《むな》しく時刻を移す内、説話《はなし》は漸くに清元《きよもと》長唄《ながうた》の優劣論に移る。
「母親さんは自分が清元が出来るもんだからそんな事をお言いだけれども、長唄の方が好《いい》サ」
「長唄も岡安《おかやす》ならまんざらでもないけれども、松永は唯つッこむばかりで面白くもなんとも有りゃアしない。それよりか清元の事サ、どうも意気でいいワ。『四谷《よつや》で始めて逢《お》うた時、すいたらしいと思うたが、因果な縁の糸車』」
 ト中音で口癖の清元を唄《うた》ッてケロリとして
「いいワ」
「その通り品格がないから嫌《きら》い」
「また始まッた、ヘン跳馬《じゃじゃうま》じゃアあるまいし、万古に品々《しんしん》も五月蠅《うるさ》い」
「だッて人間は品格が第一ですワ」
「ヘンそんなにお人柄《しとがら》なら、煮込《にこ》みのおでんなんぞを喰《たべ》たいといわないがいい」
「オヤ何時私がそんな事を言ました」
「ハイ一昨日《おとつい》の晩いいました」
「嘘《うそ》ばっかし」
 トハ言ッたが大《おおき》にへこんだので大笑いとなる。不図お政は文三の方を振向いて
「アノ今日出懸けに母親さんの所《とこ》から郵便が着たッけが、お落掌《うけとり》か」
「ア真《ほん》にそうでしたッけ、さっぱり忘却《わすれ》ていました……エー母からもこの度は別段に手紙を差上げませんが宜《よろ》しく申上げろと申ことで」
「ハアそうですか、それは。それでも母親さんは何時《いつ》もお異《かわん》なすったことも無くッて」
「ハイ、お蔭《かげ》さまと丈夫だそうで」
「それはマア何よりの事《こっ》た。さぞ今年の暮を楽しみにしておよこしなすったろうネ」
「ハイ、指ばかり屈《おっ》ていると申てよこしましたが……」
「そうだろうてネ、可愛《かわい》い息子さんの側へ来るんだものヲ。それをネー何処《ど
前へ 次へ
全147ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング