旧《ききふる》した諺《ことわざ》も今は耳新しく身に染《し》みて聞かれる。から、何事につけても、己《おのれ》一人《いちにん》をのみ責めて敢《あえ》て叨《みだ》りにお勢を尤《とが》めなかッた。が、如何に贔負眼《ひいきめ》にみても、文三の既に得た所謂《いわゆる》識認というものをお勢が得ているとはどうしても見えない。軽躁《けいそう》と心附かねばこそ、身を軽躁に持崩しながら、それを憂《う》しとも思わぬ様子※[#白ゴマ点、190−1]|醜穢《しゅうかい》と認めねばこそ、身を不潔な境に処《お》きながら、それを何とも思わぬ顔色《かおつき》。これが文三の近来最も傷心な事、半夜夢覚めて燈《ともしび》冷《ひやや》かなる時、想《おも》うてこの事に到れば、毎《つね》に悵然《ちょうぜん》として太息《たいそく》せられる。
 して見ると、文三は、ああ、まだ苦しみが甞《な》め足りぬそうな!

     第十七回

 お勢のあくたれた時、お政は娘の部屋で、凡《およ》そ二時間ばかりも、何か諄々《くどくど》と教誨《いいきか》せていたが、爾後《それから》は、どうしたものか、急に母子《おやこ》の折合が好《よく》なッて来た。取分けてお勢が母親に孝順《やさしく》する、折節には機嫌《きげん》を取るのかと思われるほどの事をも云う。親も子も睨《ね》める敵《かたき》は同じ文三ゆえ、こう比周《したしみあ》うもその筈《はず》ながら、動静《ようす》を窺《み》るに、只《ただ》そればかりでも無さそうで。
 昇はその後ふッつり遊びに来ない。顔を視《み》れば鬩《いが》み合う事にしていた母子ゆえ、折合が付いてみれば、咄《はなし》も無く、文三の影口も今は道尽《いいつく》す、――家内が何時《いつ》からと無く湿ッて来た。
「ああ辛気《しんき》だこと!」と一夜《あるよ》お勢が欠《あく》びまじりに云ッて泪《なみだ》ぐンだ。
 新聞を拾読《ひろいよみ》していたお政は眼鏡越しに娘を見遣《みや》ッて、「欠びをして徒然《つくねん》としていることは無《ない》やアね。本でも出して来てお復習《さらい》なさい」
「復習《さらえ》ッて」とお勢は鼻声になッて眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「明日《あした》の支度《したく》はもう済してしまッたものを」
「済ましッちまッたッて」
 お政は復《また》新聞に取掛ッた。
「慈母《おっか》さん」とお勢は何をか憶出して事有り気に云ッ
前へ 次へ
全147ページ中125ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング