た。「本田さんは何故《なぜ》来ないンだろう?」
「何故だか」
「憤《おこ》ッているのじゃないのだろうか?」
「そうかも知れない」
 何を云ッても取合わぬゆえ、お勢も仕方なく口を箝《つぐ》んで、少《しばら》く物思わし気に洋燈《ランプ》を凝視《みつめ》ていたが、それでもまだ気に懸ると見えて、「慈母さん」
「何だよ?」と蒼蠅《うるさ》そうにお政は起直ッた。
「真個《ほんとう》に本田さんは憤ッて来ないのだろうか?」
「何を?」
「何をッて」と少し気を得て、「そら、この間来た時、私が構わなかったから……」
 と母の顔を凝視た。
「なに人《ひと》」とお政は莞爾《にっこり》した、何と云ッてもまだおぼだなと云いたそうで。「お前に構ッて貰《もら》いたいンで来なさるンじゃ有るまいシ」
「あら、そうじゃ無いンだけれどもさ……」
 と愧《はず》かしそうに自分も莞爾《にっこり》。
 おほんという罪を作ッているとは知らぬから、昇が、例の通り、平気な顔をしてふいと遣ッて来た。
「おや、ま、噂《うわさ》をすれば影とやらだよ」とお政が顔を見るより饒舌《しゃべ》り付けた。「今|貴君《あなた》の噂をしていた所《とこ》さ。え? 勿論《もちろん》さ、義理にも善くは云えないッさ……ははははは。それは情談だが、きついお見限りですね。何処《どこ》か穴でも出来たンじゃないかね? 出来たとえ? そらそら、それだもの、だから鰻男《うなぎおとこ》だということさ。ええ鰌《どじょう》で無くッてお仕合せ? 鰌とはえ? ……あ、ほンに鰌と云えば、向う横町に出来た鰻屋ね、ちょいと異《おつ》ですッさ。久し振りだッて、奢《おご》らなくッてもいいよ。はははは」
 皺延《しわの》ばしの太平楽、聞くに堪えぬというは平日の事、今宵《こよい》はちと情実《わけ》が有るから、お勢は顔を皺《しか》めるはさて置き、昇の顔を横眼でみながら、追蒐《おっか》け引蒐《ひっか》けて高笑い。てれ隠《かく》しか、嬉《うれ》しさの溢《こぼ》れか当人に聞いてみねば、とんと分からず。
「今夜は大分御機嫌だが」と昇も心附いたか、お勢を調戯《なぶり》だす。「この間はどうしたもンだッた? 何を云ッても、『まだ明日《あした》の支度をしませんから』はッ、はッ、はッ、憶出すと可笑《おか》しくなる」
「だッて、気分が悪かッたンですものを」と淫哇《いやら》しい、形容も出来ない身振り。

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