《こわ》い事をお云いなさるねえ」とお政はおそろしい顔になッた。「お前さんがお勢を踏付たと誰が云いました? 私ア自分にも覚えが有るから、只の世間咄に踏付られたと思うと厭なもンだと云ッたばかしだよ。それをそんな云いもしない事をいって……ああ、なんだね、お前さん云い掛りをいうンだね? 女だと思ッて、そんな事を云ッて、人を困らせる気だね?」
 と層《かさ》に懸ッて極付《きめつけ》る。
「ああわるう御座ンした……」と文三は狼狽《あわ》てて謝罪《あやま》ッたが、口惜《くちお》し涙が承知をせず、両眼に一杯|溜《たま》るので、顔を揚げていられない。差俯向《さしうつむ》いて「私が……わるう御座ンした……」
「そうお云いなさると、さも私が難題でもいいだしたように聞こゆるけれども、なにもそう遁《に》げなくッてもいいじゃないか? そんな事を云い出すからにゃア、お前さんだッて、何か訳が無《なく》ッちゃア、お云いなさりもすまい?」
「私がわるう御座ンした……」と差俯向いたままで重ねて謝罪《あやまっ》た。「全くそんな気で申した訳じゃア有りませんが……お、お、思違いをして……つい……失礼を申しました……」
 こう云われては、さすがのお政ももう噛付《かみつ》きようが無いと見えて、無言で少選《しばらく》文三を睨《ね》めるように視ていたが、やがて、
「ああ厭だ厭だ」と顔を皺《しか》めて、「こんな厭な思いをするも皆《みんな》彼奴《あいつ》のお蔭《かげ》だ。どれ」と起ち上ッて、「往ッて土性骨《どしょうぼね》を打挫《ぶっくじ》いてやりましょう」
 お政は坐舗を出てしまッた。
 お政が坐舗を出るや否《いな》や、文三は今までの溜涙《ためなみだ》を一時にはらはらと落した。ただそのまま、さしうつむいたままで、良《やや》久《しば》らくの間、起ちも上がらず、身動きもせず、黙念として坐ッていた。が、そのうちにお鍋が帰ッて来たので、文三も、余義なく、うつむいたままで、力無さそうに起ち上り、悄々《すごすご》我部屋へ戻ろうとして梯子段《はしごだん》の下まで来ると、お勢の部屋で、さも意地張ッた声で、
「私ゃアもう家《うち》に居るのは厭だ厭だ」

     第十六回

 あれほどまでにお勢|母子《おやこ》の者に辱《はずかし》められても、文三はまだ園田の家を去る気になれない。但《た》だ、そのかわり、火の消えたように、鎮《しず》まッてし
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