向いて、可畏《こわ》らしい眼付をして文三を睨《ね》め出した。その容子《ようす》が常で無いから、お鍋はふと笑い罷《や》んでもッけな顔をする。文三は色を失ッた……
「どうせ私は意久地が有りませんのさ」とお勢はじぶくりだした、誰に向ッて云うともなく。
「笑いたきゃア沢山《たんと》お笑いなさい……失敬な。人の叱られるのが何処《どこ》が可笑《おか》しいンだろう? げたげたげたげた」
「何だよ、やかましい! 言艸《いいぐさ》云わずと、早々《さっさ》と拭いておしまい」
と母親は火鉢の布巾《ふきん》を放《な》げ出す。けれども、お勢は手にだも触れず、
「意久地がなくッたッて、まだ自分が云ッたことを忘れるほど盲録《もうろく》はしません。余計なお世話だ。人の事よりか自分の事を考えてみるがいい。男の口からもう口も開《き》かないなンぞッて云ッて置きながら……」
「お勢!」
と一句に力を籠《こ》めて制する母親、その声ももウこう成ッては耳には入らない。文三を尻眼《しりめ》に懸けながらお勢は切歯《はぎし》りをして、
「まだ三日も経《た》たないうちに、人の部屋へ……」
「これ、どうしたもンだ」
「だッて私ア腹が立つものを。人の事を浮気者《うわきもん》だなンぞッて罵《ののし》ッて置きながら、三日も経たないうちに、人の部屋へつかつか入ッて来て……人の袂なンぞ捉《つかま》えて、咄《はなし》が有るだの、何だの、種々《いろいろ》な事を云ッて……なんぼ何だッて余《あんま》り人を軽蔑《けいべつ》した……云う事が有るなら、茲処《ここ》でいうがいい、慈母さんの前で云えるなら、云ッてみるがいい……」
留めれば留めるほど、尚《な》お喚《わめ》く。散々喚かして置いて、もう好い時分と成ッてから、お政が「彼方《あッち》へ」と顋《あご》でしゃくる。しゃくられて、放心して人の顔ばかり視ていたお鍋は初めて心附き、倉皇《あわてて》箸《はし》を棄ててお勢の傍《そば》へ飛んで来て、いろいろに賺《す》かして連れて行こうとするが、仲々素直に連れて行かれない。
「いいえ、放擲《うっちゃ》ッといとくれ。何だか云う事が有《ある》ッていうンだから、それを……聞かないうちは……いいえ、私《わた》しゃ……あンまり人を軽蔑した……いいえ、其処《そこ》お放しよ……お放しッてッたら、お放しよッ……」
けれども、お鍋の腕力には敵《かな》わない。無理無体に
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