ん》染の、眼前《めさき》にちらちら……はッと心附く……我を忘れて、しッかり捉《とら》えたお勢の袂《たもと》を……
「何をなさるンです?」
 と慳貪《けんどん》に云う。
「少しお噺し……お……」
「今用が有ります」
 邪慳《じゃけん》に袂を振払ッて、ついと部屋を出《でて》しまッた。
 その跡を眺《なが》めて文三は呆《あき》れた顔……「この期《ご》を外《はず》しては……」と心附いて起ち上りてはみたが、まさか跡を慕ッて往《い》かれもせず、萎《しお》れて二階へ狐鼠々々《こそこそ》と帰ッた。
「失敗《しま》ッた」と口へ出して後悔して後《おく》れ馳《ば》せに赤面。「今にお袋が帰ッて来る。『慈母さんこれこれの次第……』失敗《しま》ッた、失策《しくじ》ッた」
 千悔、万悔、臍《ほぞ》を噬《か》んでいる胸元を貫くような午砲《ごほう》の響《ひびき》。それと同時に「御膳《ごぜん》で御座いますよ」。けれど、ほいきたと云ッて降りられもしない。二三度呼ばれて拠《よん》どころ無く、薄気味わるわる降りてみれば、お政はもウ帰ッていて、娘と取膳《とりぜん》で今食事最中。文三は黙礼をして膳に向ッた。「もウ咄したか、まだ咄さぬか」と思えば胸も落着かず、臆病《おくびょう》で好事《ものずき》な眼を額越《ひたえごし》にそッと親子へ注いでみればお勢は澄ました顔、お政は意味の無い顔、……咄したとも付かず、咄さぬとも付かぬ。
 寿命を縮めながら、食事をしていた。
「そらそら、気をお付けなね。小供じゃア有るまいし」
 ふと轟《とどろ》いたお政の声に、怖気《おじけ》の附いた文三ゆえ、吃驚《びっくり》して首を矯《あ》げてみて、安心した※[#白ゴマ点、181−17]お勢が誤まッて茶を膝《ひざ》に滴《こぼ》したので有ッた。
 気を附けられたからと云うえこじな顔をして、お勢は澄ましている。拭《ふ》きもしない。「早くお拭きなね」と母親は叱《しか》ッた。「膝の上へ茶を滴《こぼ》して、ぽかんと見てえる奴が有るもんか。三歳児《みつご》じゃア有るまいし、意久地の無いにも方図《ほうず》が有ッたもンだ」
 もはやこう成ッては穏《おだやか》に収まりそうもない。黙ッても視《み》ていられなくなッたから、お鍋は一とかたけ煩張《ほおば》ッた飯を鵜呑《うのみ》にして、「はッ、はッ」と笑ッた。同じ心に文三も「ヘ、ヘ」と笑ッた。
 するとお勢は佶《きっ》と振
前へ 次へ
全147ページ中119ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング