すが、まだ明日《あした》の支度《したく》をしませんから……」
 けれども、敵手《あいて》が敵手だから、一向|利《き》かない。
「明日《あした》の支度? 明日の支度なぞはどうでも宜いさ」
 と昇はお勢の傍《そば》に陣を取ッた。
「本統にまだ……」
「何をそう拗捩《すね》たンだろう? 令慈《おっかさん》に叱《しか》られたね? え、そうでない。はてな」
 と首を傾《かたぶ》けるより早く横手を拍《う》ッて、
「あ、ああわかッた。成《な》、成《な》、それで……それならそうと早く一言云えばいいのに……なンだろう大方かく申す拙者|奴《め》に……ウ……ウと云ッたような訳なンだろう? 大蛤《おおはまぐり》の前じゃア口が開《あ》きかねる、――これやア尤《もっとも》だ。そこで釣寄《つりよ》せて置いて……ほんありがた山の蜀魂《ほととぎす》、一声漏らそうとは嬉《うれ》しいぞえ嬉しいぞえ」
 と妙な身振りをして、
「それなら、実は此方《こっち》も疾《とう》からその気ありだから、それ白痴《こけ》が出来合|靴《ぐつ》を買うのじゃないが、しッくり嵌《は》まるというもンだ。嵌まると云えば、邪魔の入らない内だ。ちょッくり抱《だ》ッこのぐい極《ぎ》めと往きやしょう」
 と白らけた声を出して、手を出しながら、摺寄《すりよ》ッて来る。
「明日の支度が……」
 とお勢は泣声を出して身を縮ませた。
「ほい間違ッたか。失敗、々々」
 何を云ッても敵手《あいて》にならぬのみか、この上手を附けたら雨になりそうなので、さすがの本田も少し持あぐねたところへ、お鍋が呼びに来たから、それを幸いにして奥坐舗へ還ッてしまッた。
 文三は昇が来たから安心を失《な》くして、起ッて見たり坐ッて見たり。我他彼此《がたびし》するのが薄々分るので、弥以《いよいよもって》堪《たま》らず、無い用を拵《こしら》えて、この時二階を降りてお勢の部屋の前を通りかけたが、ふと耳を聳て、抜足をして障子の間隙《ひずみ》から内を窺《のぞい》てはッと顔※[#白ゴマ点、178−15]お勢が伏臥《うつぶし》になッて泣……い……て……
「Explanation《エキスプラネーション》(示談《はなしあい》)」と一時に胸で破裂した……

     第十五回

 Explanation《エキスプラネーション》(示談《はなしあい》)、と肚《はら》を極めてみると、大きに胸が透いた
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