しめ》切り、再び机の辺《ほとり》に坐る間もなく、折角〆た障子をまた開けて……己《おの》れ、やれ、もう堪忍《かんにん》が……と振り反ッてみれば、案外な母親。お勢は急に他所《よそ》を向く。
「お勢」と小声ながらに力瘤《ちからこぶ》を込めて、お政は呼ぶ。此方《こちら》はなに返答をするものかと力身《りきん》だ面相《かおつき》。
「何だと云ッて、あんなおかしな処置振りをお為《し》だ? 本田さんが何とか思いなさらアね。彼方《あっち》へお出でよ」
 と暫《しば》らく待ッていてみたが、動きそうにも無いので、又声を励まして、
「よ、お出でと云ッたら、お出でよ」
「その位ならあんな事云わないがいい……」
 と差俯向《さしうつむ》く、その顔を窺《のぞ》けば、おやおや泪《なみだ》ぐんで……
「ま呆《あき》れけえッちまわア!」と母親はあきれけエッちまッた。「たンとお脹《ふく》れ」
 とは云ッたが、又折れて、
「世話ア焼かせずと、お出でよ」
 返答なし。
「ええ、も、じれッたい! 勝手にするがいい!」
 そのまま母親は奥坐舗へ還《かえ》ってしまった。
 これで坐舗へ還る綱も截《き》れた。求めて截ッて置きながら今更惜しいような、じれッたいような、おかしな顔をして暫く待ッていてみても、誰も呼びに来てもくれない。また呼びに来たとて、おめおめ還られもしない。それに奥坐舗では想像《おもいやり》のない者共が打揃《うちそろ》ッて、噺《はな》すやら、笑うやら……肝癪《かんしゃく》紛れにお勢は色鉛筆を執ッて、まだ真新しなすういんとん[#「すういんとん」に傍線]の文典の表紙をごしごし擦《こす》り初めた。不運なはすういんとん[#「すういんとん」に傍線]の文典!
 表紙が大方真青になッたころ、ふと縁側に足音……耳を聳《そばだ》てて、お勢ははッと狼狽《うろた》えた……手ばしこく文典を開けて、倒《さか》しまになッているとも心附かで、ぴッたり眼で喰込んだ、とんと先刻から書見していたような面相《かおつき》をして。
 すらりと障子が開《あ》く。文典を凝視《みつ》めたままで、お勢は少し震えた。遠慮気もなく無造作に入ッて来た者は云わでと知れた昇。華美《はで》な、軽い調子で、「遁《に》げたね、好男子《いろおとこ》が来たと思ッて」
 と云わして置いて、お勢は漸く重そうに首を矯《あ》げて、世にも落着いた声で、さもにべなく、
「あの失礼で
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