」
「誰がとぼけています、誰が誰に別れようと云うのです」
文三はムラムラとした。些し声高《こわだか》に成ッて、
「とぼけるのも好加減になさい、誰が誰に別れるのだとは何の事です。今までさんざ人の感情を弄《もてあそ》んで置きながら、今と成て……本田なぞに見返えるさえ有るに、人が穏かに出れば附上《つけあが》ッて、誰が誰に別れるのだとは何の事です」
「何ですと、人の感情を弄んで置きながら……誰が人の感情を弄びました……誰が人の感情を弄びましたよ」
ト云った時はお勢もうるみ眼に成っていた。文三はグッとお勢の顔を疾視付《にらみつ》けている而已《のみ》で、一語をも発しなかった。
「余《あんまり》だから宜《い》い……人の感情を弄んだの本田に見返ったのといろんな事を云って讒謗《ざんぼう》して……自分の己惚《うぬぼれ》でどんな夢を見ていたって、人の知た事《こッ》ちゃ有りゃしない……」
トまだ言終らぬ内に文三はスックと起上《たちあが》って、お勢を疾視付《にらみつ》けて、
「モウ言う事も無い聞く事も無い。モウこれが口のきき納めだからそう思ってお出《い》でなさい」
「そう思いますとも」
「沢山……浮気をなさい」
「何ですと」
ト云った時にはモウ文三は部屋には居なかった。
「畜生……馬鹿……口なんぞ聞いてくれなくッたッて些《ちッ》とも困りゃしないぞ……馬鹿……」
ト跡でお勢が敵手《あいて》も無いに独りで熱気《やッき》となって悪口《あっこう》を並べ立てているところへ、何時の間に帰宅したかフと母親が這入って来た。
「どうしたんだえ」
「畜生……」
「どうしたんだと云えば」
「文三と喧嘩《けんか》したんだよ……文三の畜生と……」
「どうして」
「先刻《さっき》突然《いきなり》這入ッて来て、今朝|慈母《おッか》さんがこうこう言ッたがどうしようと相談するから、それから昨夜《ゆうべ》慈母さんが言た通りに……」
「コレサ、静かにお言い」
「慈母さんの言た通りに云て勧めたら腹を立てやアがッて、人の事をいろんな事を云ッて」
ト手短かに勿論自分に不利な所はしッかい取除いて次第を咄《はな》して、
「慈母さん、私ア口惜《くや》しくッて口惜しくッてならないよ」
ト云ッて襦袢《じゅばん》の袖口《そでぐち》で泪《なみだ》を拭《ふ》いた。
「フウそうかえ、そんな事を云ッたかえ。それじゃもうそれまでの事だ。あんな
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