験で解ります、そりゃ掩《おお》う可《べか》らざる事実だから何だけれども……それに課長の所へ往こうとすれば、是非とも先《ま》ず本田に依頼をしなければなりません、勿論《もちろん》課長は私も知らない人じゃないけれども……」
「宜いじゃ有りませんか、本田さんに依頼したッて」
「エ、本田に依頼をしろと」
ト云ッた時は文三はモウ今までの文三でない、顔色《がんしょく》が些し変ッていた。
「命令するのじゃ有りませんがネ、唯依頼したッて宜いじゃ有りませんか、と云うの」
「本田に」
ト文三はあたかも我耳を信じないように再び尋ねた。
「ハア」
「あんな卑屈な奴に……課長の腰巾着《こしぎんちゃく》……奴隷《どれい》……」
「そんな……」
「奴隷と云われても耻とも思わんような、犬……犬……犬猫同前な奴に手を杖《つ》いて頼めと仰しゃるのですか」
ト云ッてジッとお勢の顔を凝視《みつ》めた。
「昨夜《ゆうべ》の事が有るからそれで貴君はそんなに仰しゃるんだろうけれども、本田さんだッてそんなに卑屈な人じゃ有りませんワ」
「フフン卑屈でない、本田を卑屈でない」
ト云ッてさも苦々しそうに冷笑《あざわら》いながら顔を背《そむ》けたが、忽《たちま》ちまたキッとお勢の方を振向いて、
「何時《いつ》か貴嬢何と仰しゃッた、本田が貴嬢に対《むか》ッて失敬な情談を言ッた時に……」
「そりゃあの時には厭な感じも起ッたけれども、能《よ》く交際して見ればそんなに貴君のお言いなさるように破廉耻《はれんち》の人じゃ有りませんワ」
文三は黙然《もくねん》としてお勢の顔を凝視めていた、但《ただ》し宜《よろ》しくない徴候で。
「昨夜《ゆうべ》もアレから下へ降りて、本田さんがアノー『慈母《おっか》さんが聞《きく》と必《きっ》と喧《やか》ましく言出すに違いない、そうすると僕は何だけれどもアノ内海が困るだろうから黙ッていてくれろ』と口止めしたから、私は何とも言わなかッたけれども鍋がツイ饒舌《しゃべ》ッて……」
「古狸奴《ふるだぬきめ》、そんな事を言やアがッたか」
「またあんな事を云ッて……そりゃ文さん、貴君が悪いよ。あれ程貴君に罵詈《ばり》されても腹も立てずにやっぱり貴君の利益を思ッて云う者を、それをそんな古狸なんぞッて……そりゃ貴君は温順だのに本田さんは活溌《かっぱつ》だから気が合わないかも知れないけれども、貴君と気の合わないも
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