、そして自分も安心したい。それで文三は先刻も言葉を濁して来たので、それで文三は今又|屈托《くったく》の人と為《な》ッているので。
「どうしたものだろう」
 ト文三再び我と我に相談を懸けた。
「寧《いっ》そ叔母の意見に就いて、廉耻も良心も棄ててしまッて、課長の所へ往ッて見ようかしらん。依頼さえして置けば、仮令《たと》えば今が今どうならんと云ッても、叔母の気が安まる。そうすれば、お勢さえ心変りがしなければまず大丈夫と云うものだ。かつ慈母《おッか》さんもこの頃じゃア茶断《ちゃだち》して心配してお出でなさるところだから、こればかりで犠牲《ヴィクチーム》に成ッたと云ッても敢て小胆とは言われまい。コリャ寧《いッ》そ叔母の意見に……」
 が猛然として省思すれば、叔母の意見に就こうとすれば厭でも昇に親まなければならぬ。昇とあのままにして置いて独り課長に而已《のみ》取入ろうとすれば、渠奴《きゃつ》必ず邪魔を入れるに相違ない。からして厭でも昇に親まなければならぬ。老母の為お勢の為めなら、或は良心を傷《きずつ》けて自重の気を拉《とりひし》いで課長の鼻息を窺《うかが》い得るかも知れぬが、如何《いか》に窮したればと云ッて苦しいと云ッて、昇に、面と向ッて図《ず》大柄《おおへい》に「痩我慢なら大抵にしろ」ト云ッた昇に、昨夜も昨夜とて小児の如くに人を愚弄して、陽《あらわ》に負けて陰《ひそか》に復《かえ》り討に逢わした昇に、不倶戴天《ふぐたいてん》の讎敵《あだ》、生ながらその肉を啖《くら》わなければこの熱腸が冷されぬと怨みに思ッている昇に、今更手を杖《つ》いて一|着《ちゃく》を輸《ゆ》する事は、文三には死しても出来ぬ。課長に取入るも昇に上手を遣《つか》うも、その趣きは同じかろうが同じく有るまいが、そんな事に頓着《とんじゃく》はない。唯是もなく非もなく、利もなく害もなく、昇に一着を輸する事は文三には死しても出来ぬ。
 ト決心して見れば叔母の意見に負《そむ》かなければならず、叔母の意見に負くまいとすれば昇に一着を輸さなければならぬ。それも厭なりこれも厭なりで、二時間ばかりと云うものは黙坐して腕を拱《く》んで、沈吟して嘆息して、千思万考、審念熟慮して屈托して見たが、詮《せん》ずる所は旧《もと》の木阿弥《もくあみ》。
「ハテどうしたものだろう」
 物皆終あれば古筵《ふるむしろ》も鳶《とび》にはなりけり。久し
前へ 次へ
全147ページ中104ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング