かも廉潔《れんけつ》な心から文三が手を下げて頼まぬと云えば、嫉《ねた》み妬《そね》みから負惜しみをすると臆測《おくそく》を逞《たくましゅ》うして、人も有ろうにお勢の前で、
「痩我慢なら大抵にしろ」
 口惜しい、腹が立つ。余《よ》の事はともかくも、お勢の目前で辱められたのが口惜しい。
「しかも辱められるままに辱められていて、手出《てだし》もしなかッた」
 ト何処でか異《おつ》な声が聞えた。
「手出がならなかッたのだ、手出がなっても為得《しえ》なかッたのじゃない」
 ト文三|憤然《やっき》として分疏《いいわけ》を為出《しだ》した。
「我《おれ》だッて男児だ、虫も有る胆気も有る。昇なんぞは蚊蜻蛉《かとんぼ》とも思ッていぬが、シカシあの時|憖《なま》じ此方《こっち》から手出をしては益々向うの思う坪に陥《はま》ッて玩弄《がんろう》されるばかりだシ、かつ婦人の前でも有ッたから、為難《しにく》い我慢もして遣ッたんだ」
 トは知らずしてお勢が、怜悧《れいり》に見えても未惚女《おぼこ》の事なら、蟻《あり》とも螻《けら》とも糞中《ふんちゅう》の蛆《うじ》とも云いようのない人非人、利の為《た》めにならば人糞をさえ甞《な》めかねぬ廉耻《れんち》知らず、昇如き者の為めに文三が嘲笑されたり玩弄されたり侮辱されたりしても手出をもせず阿容々々《おめおめ》として退《しりぞ》いたのを視て、或《あるい》は不甲斐《ふがい》ない意久地が無いと思いはしなかッたか……仮令《よし》お勢は何とも思わぬにしろ、文三はお勢の手前面目ない、耻《はず》かしい……
「ト云うも昇、貴様から起ッた事だぞ、ウヌどうするか見やがれ」
 ト憤然《やっき》として文三が拳を握ッて歯を喰切《くいしば》ッて、ハッタとばかりに疾視付《にらみつ》けた。疾視付けられた者は通りすがりの巡査で、巡査は立止ッて不思議そうに文三の背長《せたけ》を眼分量に見積ッていたが、それでも何とも言わずにまた彼方《あちら》の方へと巡行して往ッた。
 愕然《がくぜん》として文三が、夢の覚めたような面相《かおつき》をしてキョロキョロと四辺《あたり》を環視《みま》わして見れば、何時《いつ》の間にか靖国《やすくに》神社の華表際《とりいぎわ》に鵠立《たたずん》でいる。考えて見ると、成程|俎橋《まないたばし》を渡ッて九段坂を上ッた覚えが微《かすか》に残ッている。
 乃《すなわ》ち社
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