#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]人《かせぎにん》が没してから家計は一方ならぬ困難、薬礼《やくれい》と葬式の雑用《ぞうよう》とに多《おおく》もない貯叢《たくわえ》をゲッソリ遣い減らして、今は残り少なになる。デモ母親は男勝《おとこまさ》りの気丈者、貧苦にめげない煮焚《にたき》の業《わざ》の片手間に一枚三厘の襯衣《シャツ》を縫《く》けて、身を粉《こ》にして※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]了《かせ》ぐに追付く貧乏もないか、どうかこうか湯なり粥《かゆ》なりを啜《すすっ》て、公債の利の細い烟《けぶり》を立てている。文三は父親の存生中《ぞんじょうちゅう》より、家計の困難に心附かぬでは無いが、何と言てもまだ幼少の事、何時《いつ》までもそれで居られるような心地がされて、親思いの心から、今に坊がああしてこうしてと、年齢《とし》には増せた事を言い出しては両親に袂《たもと》を絞らせた事は有《あっ》ても、又|何処《どこ》ともなく他愛《たわい》のない所も有て、浪《なみ》に漂う浮艸《うきぐさ》の、うかうかとして月日を重ねたが、父の死後|便《たより》のない母親の辛苦心労を見るに付け聞くに付け、小供心にも心細くもまた悲しく、始めて浮世の塩が身に浸《し》みて、夢の覚たような心地。これからは給事なりともして、母親の手足《たそく》にはならずとも責めて我口だけはとおもう由《よし》をも母に告げて相談をしていると、捨る神あれば助《たすく》る神ありで、文三だけは東京《とうけい》に居る叔父の許《もと》へ引取られる事になり、泣《なき》の泪《なみだ》で静岡を発足《ほっそく》して叔父を便《たよ》って出京したは明治十一年、文三が十五に成た春の事とか。
叔父は園田孫兵衛《そのだまごべえ》と言いて、文三の亡父の為めには実弟に当る男、慈悲深く、憐《あわれ》ッぽく、しかも律義《りちぎ》真当《まっとう》の気質ゆえ人の望《う》けも宜いが、惜《おしい》かな些《ち》と気が弱すぎる。維新後は両刀を矢立《やたて》に替えて、朝夕|算盤《そろばん》を弾《はじ》いては見たが、慣れぬ事とて初の内は損毛《そんもう》ばかり、今日に明日《あす》にと喰込《くいこん》で、果は借金の淵《ふち》に陥《は》まり、どうしようこうしようと足掻《あが》き※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いている内、不図した事から浮み上《あがっ
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