Tもどかしさ、モジモジしながらトウトウ二時間ばかりというもの無間断《のべつ》に受けさせられた。その受賃という訳でも有るまいが帰り際《ぎわ》になって、
「新聞の翻訳物が有るから周旋しよう。明後日《あさって》午後に来給《きたま》え、取寄せて置こう」
 トいうから文三は喜びを述べた。
「フン新聞か……日本の新聞は英国の新聞から見りゃ全《まる》で小児《こども》の新聞だ、見られたものじゃない……」
 文三は狼狽《あわ》てて告別《わかれ》の挨拶を做直《しな》おして※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そこそこ》に戸外《おもて》へ立出で、ホッと一息|溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
 早くお勢に逢いたい、早くつまらぬ心配をした事を咄してしまいたい、早く心の清い所を見せてやりたい、ト一心に思詰めながら文三がいそいそ帰宅して見るとお勢はいない。お鍋に聞けば、一旦《いったん》帰ってまた入湯に往ったという。文三|些《すこ》し拍子抜《ひょうしぬ》けがした。
 居間へ戻ッて燈火を点じ、臥《ね》て見たり起きて見たり、立て見たり坐ッて見たりして、今か今かと文三が一刻千秋の思いをして頸《くび》を延ばして待構えていると、頓《やが》て格子戸《こうしど》の開く音がして、縁側に優しい声がして、梯子段《はしごだん》を上る跫音《あしおと》がして、お勢が目前に現われた。と見れば常さえ艶《つや》やかな緑の黒髪は、水気《すいき》を含んで天鵞絨《びろうど》をも欺むくばかり、玉と透徹る肌《はだえ》は塩引の色を帯びて、眼元にはホンノリと紅《こう》を潮《ちょう》した塩梅《あんばい》、何処やらが悪戯《いたずら》らしく見えるが、ニッコリとした口元の塩らしいところを見ては是非を論ずる遑《いとま》がない。文三は何もかも忘れてしまッて、だらしも無くニタニタと笑いながら、
「お皈《かえん》なさい。どうでした団子坂は」
「非常に雑沓《ざっとう》しましたよ、お天気が宜《いい》のに日曜だッたもんだから」
 ト言いながら膝《ひざ》から先へベッタリ坐ッて、お勢は両手で嬌面《かお》を掩《おお》い、
「アアせつない、厭《いや》だと云うのに本田さんが無理にお酒を飲まして」
「母親《おっか》さんは」
 ト文三が尋ねた、お勢が何を言ッたのだかトント解らないようで。
「お湯から買物に回ッて……そしてネ自家《じぶん》もモウ好加減に酔てる癖に、私が飲め
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