ч}だ……モウ些《ちっ》と彼地《あっち》の方へ行て見ようじゃ有りませんか」
「漸《ようや》くの思いで一所に物観遊山に出るとまでは漕付《こぎつけ》は漕付たけれども、それもほんの一所に歩く而已《のみ》で、慈母《おっか》さんと云うものが始終|傍《そば》に附ていて見れば思う様に談話《はなし》もならず」
「慈母さんと云えば何を做《し》ているんだろうネー」
ト背後《うしろ》を振返ッて観た。
「偶《たまたま》好機会が有ッて言出せば、その通りとぼけておしまいなさるし、考えて見ればつまらんナ」
ト愚痴ッぽくいッた。
「厭ですよ、そんな戯談を仰しゃッちゃ」
ト云ッてお勢が莞爾々々《にこにこ》と笑いながら此方《こちら》を振向いて視て、些《すこ》し真面目《まじめ》な顔をした。昇は萎《しお》れ返ッている。
「戯談と聞かれちゃ填《う》まらない、こう言出すまでにはどの位苦しんだと思いなさる」
ト昇は歎息した。お勢は眼睛《め》を地上に注いで、黙然《もくねん》として一語をも吐かなかッた。
「こう言出したと云ッて、何にも貴嬢《あなた》に義理を欠かして私《わたくし》の望《のぞみ》を遂げようと云うのじゃア無いが、唯貴嬢の口から僅《たッた》一言、『断念《あきら》めろ』と云ッて戴《いただ》きたい。そうすりゃア私もそれを力に断然思い切ッて、今日ぎりでもう貴嬢にもお眼に懸るまい……ネーお勢さん」
お勢は尚お黙然としていて返答をしない。
「お勢さん」
ト云いながら昇が項垂《うなだ》れていた首を振揚げてジッとお勢の顔を窺《のぞ》き込めば、お勢は周章狼狽《どぎまぎ》してサッと顔を※[#「赤+報のつくり」、96−9]《あか》らめ、漸く聞えるか聞えぬ程の小声で、
「虚言《うそ》ばッかり」
ト云ッて全く差俯向《さしうつむ》いてしまッた。
「アハハハハハ」
ト突如《だしぬけ》に昇が轟然《ごうぜん》と一大笑を発したので、お勢は吃驚《びっくり》して顔を振揚げて視て、
「オヤ厭だ……アラ厭だ……憎らしい本田さんだネー、真面目くさッて人を威《おど》かして……」
ト云ッて悔しそうにでもなく恨めしそうにでもなく、謂《い》わば気まりが悪るそうに莞爾《にっこり》笑ッた。
「お巫山戯《ふざけ》でない」
ト云う声が忽然《こつぜん》背後《うしろ》に聞えたのでお勢が喫驚《びっくり》して振返ッて視ると、母親が帯の間へ紙入を挿《はさ》
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