sあいし》、運命の寵臣《ちょうしん》、人の中《うち》の人、男の中《なか》の男と世の人の尊重の的、健羨《けんせん》の府となる昔|所謂《いわゆる》お役人様、今の所謂官員さま、後の世になれば社会の公僕とか何とか名告《なの》るべき方々も出た。商賈《しょうこ》も出た負販《ふはん》の徒も出た。人の横面《そっぽう》を打曲《はりま》げるが主義で、身を忘れ家を忘れて拘留の辱《はずかしめ》に逢《あ》いそうな毛臑《けずね》暴出《さらけだ》しの政治家も出た。猫も出た杓子《しゃくし》も出た。人様々の顔の相好《すまい》、おもいおもいの結髪風姿《かみかたち》、聞覩《ぶんと》に聚《あつ》まる衣香襟影《いこうきんえい》は紛然雑然として千態|万状《ばんじょう》、ナッカなか以て一々枚挙するに遑《いとま》あらずで、それにこの辺は道幅《みちはば》が狭隘《せばい》ので尚お一段と雑沓《ざっとう》する。そのまた中を合乗で乗切る心無し奴《め》も有難《ありがた》の君が代に、その日|活計《ぐらし》の土地の者が摺附木《マッチ》の函《はこ》を張りながら、往来の花観る人をのみ眺《なが》めて遂に真《まこと》の花を観ずにしまうかと、おもえば実に浮世はいろいろさまざま。
 さてまた団子坂の景況は、例の招牌《かんばん》から釣込む植木屋は家々の招きの旗幟《はた》を翩翻《へんぽん》と金風《あきかぜ》に飄《ひるがえ》し、木戸々々で客を呼ぶ声はかれこれからみ合て乱合《みだれあっ》て、入我我入《にゅうががにゅう》でメッチャラコ、唯|逆上《のぼせあが》ッた木戸番の口だらけにした面《かお》が見える而已《のみ》で、何時《いつ》見ても変ッた事もなし。中へ這入《はい》ッて見てもやはりその通りで。
 一体全体菊というものは、一本《ひともと》の淋《さび》しきにもあれ千本八千本《ちもとやちもと》の賑《にぎわ》しきにもあれ、自然のままに生茂《おいしげ》ッてこそ見所の有ろう者を、それをこの辺の菊のようにこう無残々々《むざむざ》と作られては、興も明日《あす》も覚めるてや。百草の花のとじめと律義《りちぎ》にも衆芳に後《おく》れて折角咲いた黄菊白菊を、何でも御座れに寄集めて小児騙欺《こどもだまし》の木偶《でく》の衣裳《べべ》、洗張りに糊《のり》が過ぎてか何処へ触ッてもゴソゴソとしてギゴチ無さそうな風姿《とりなり》も、小言いッて観る者は千人に一人か二人、十人が十人まず花
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