Aどうしても往《い》かんか」
「まずよそう」
「剛情だな……ゴジョウだからお出《いで》なさいよじゃ無いか、アハハハ。ト独りで笑うほかまず仕様が無い、何を云ッても先様にゃお通じなしだ、アハハハ」
 戯言《ぎげん》とも附かず罵詈《ばり》とも附かぬ曖昧《あいまい》なお饒舌《しゃべり》に暫らく時刻を移していると、忽《たちま》ち梯子段の下にお勢の声がして、
「本田さん」
「何です」
「アノ車が参りましたから、よろしくば」
「出懸けましょう」
「それではお早く」
「チョイとお勢さん」
「ハイ」
「貴嬢《あなた》と合乗《あいのり》なら行ても宜《いい》というのがお一方《ひとかた》出来たが承知ですかネ」
 返答は無く、唯《ただ》バタバタと駆出す足音がした。
「アハハハ、何にも言わずに逃出すなぞは未《ま》だしおらしいネ」
 ト言ったのが文三への挨拶で、昇はそのまま起上《たちあが》ッて二階を降りて往った。跡を目送《みおく》りながら文三が、さもさも苦々しそうに口の中《うち》で、
「馬鹿|奴《め》……」
 ト言ったその声が未だ中有《ちゅうう》に徘徊《さまよ》ッている内に、フト今年の春|向島《むこうじま》へ観桜《さくらみ》に往った時のお勢の姿を憶出し、どういう心計《つもり》か蹶然《むっく》と起上り、キョロキョロと四辺《あたり》を環視《みまわ》して火入《ひいれ》に眼を注《つ》けたが、おもい直おして旧《もと》の座になおり、また苦々しそうに、
「馬鹿奴」
 これは自《みずか》ら叱責《しか》ったので。
 午後はチト風が出たがますます上天気、殊《こと》には日曜と云うので団子坂近傍は花観る人が道去り敢《あ》えぬばかり。イヤ出たぞ出たぞ、束髪も出た島田も出た、銀杏返《いちょうがえ》しも出た丸髷《まるまげ》も出た、蝶々《ちょうちょう》髷も出たおケシも出た。○○《なになに》会幹事、実は古猫の怪という、鍋島《なべしま》騒動を生《しょう》で見るような「マダム」某《なにがし》も出た。芥子《けし》の実ほどの眇少《かわいら》しい智慧《ちえ》を両足に打込んで、飛だり跳《はね》たりを夢にまで見る「ミス」某も出た。お乳母も出たお爨婢《さんどん》も出た。ぞろりとした半元服、一夫数妻《いっぷすさい》論の未だ行われる証拠に上りそうな婦人も出た。イヤ出たぞ出たぞ、坊主も出た散髪《ざんぎり》も出た、五分刈も出たチョン髷も出た。天帝の愛子
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