いよ》成って見れば、やはり子供の心持に還る。これ変ったと云えば大に変り、変らんと云えば大に変らん所じゃないか。だから先きへばかり眼を向けるのが抑《そもそも》の迷い。偶《たま》には足許も見ては何《ど》うか。すると「いや、此儘で幸福だ」というような事がありはせんか、と、まア思うんだな。
 私は何も仏《ほとけ》を信じてる訳じゃないが、禅で悟を開くとか、見性成仏《けんしょうじょうぶつ》とかいった趣きが心の中《うち》には有る。そんなら今が幸福だと満足して、此上に社会改良も何も不必要かと云うに然うでもない、大変パラドクサルになって了って……ある意味じゃ此儘幸福だが、他の意味じゃ不幸福だ。一見矛盾しているようだが私の心では為《し》て居らん。ここが象徴派《シムボリスト》と同じ所へ来ている証拠じゃないかと思う。だから人が文学や哲学を難有《ありがた》がるのは余程後れていやせんかと考えられる。第一其等が有難いと云うな、偽《うそ》の有難いんだ。何となれば、文学哲学の価値を一旦根底から疑って掛らんけりゃ、真の価値は解らんじゃないか。ところが日本の文学の発達を考えて見るに果してそう云うモーメントが有ったか、有るま
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