、よほど霊が勝《まさ》ってる証拠だ。だからシンボリストでも、思想では霊肉一致だろうが自分の存在では未だ其処までは行って居らんよ。そんなら行き着いた先きは何うなるかと云うに、そりゃ想像は一寸付かん。第二義から第一義に行って霊も肉も無い……文学が高尚でも何でも無くなる境涯に入れば偖《さ》てどうなるかと云うに、それは私だけにゃ大概の見当は付いているようにも思われるが、ま、ま、殆ど想像が出来んと云って可《い》いな。――ただ何だか遠方の地平線に薄ぼんやりとあかるく夜《よ》が明けかかっているような所が見えるばかりだ。
未知《アンノーン》の神《ゴット》、未知《アンノーン》の幸福《ハッピネス》――これは象徴派《シムボリスト》のよく口にする所だが、あすこいらは私と同じ傾向に来て居るんじゃないかと思うね。併し彼等はまるで今迄とは性質の変った思いもかけぬ神様や幸福が先きにあるように考えてるらしいが、私はそうは思わん。我々が斯うして生きてるのは即ち「アンノーン、ハッピネス」じゃないか。ただ気が付かずに迷ってるだけだ。聖人は赤児の如しという言葉が、其に幾らか似た事情で、かねて成り度いと望んでた聖人に弥々《いよ
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