に坐っているのも亦人生に漬かっているのだから、人生に対する感を持たれぬという筈もない。だから追想とか空想とかで作の出来る人ならば兎も角、私にゃどうしても書きながら実感が起らぬから真劒になれない。古い説かも知らんが私の知ってる限りじゃ、今迄の美学者も実感を芸術の真髄とはせず、空想が即ち本態であるとしている。この空想とは、例の賊に追われたことを後から追懐する奴なんだ。そうすると小説は第二義のもので、第一義のものじゃなくなって来る。否《いや》、小説ばかりじゃない、一体の人生観という奴が私にゃ然う思えるんだよ……思えると云うと語弊があるが、那様《そんな》気がするのだ。どうも莫迦々々《ばかばか》しくてね。だから作をする時にゃ、精神は非常に緊張させるけれども、心には遊びがある。丁度、撃劒で丁々と撃合っては居るが、つまり真劒勝負じゃない、その心持と同《おん》なじ事だ。こんな風だから、他人は作をしていねば生活が無意味だというが、私は作をしていれば無意味だ、して居らんと大に有意味になる。この相違を来すにゃ何か相当の原因が無くばなるまい。
私は二十世紀の文明は皆《みん》な無意義になるんじゃないかと思う。
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