るから、私にゃ弥々《いよいよ》真劒にゃなれない。
併しながら、斯う云うと、私一人を以て凡ての人を律するように取られるかも知らんが、そう云う心持でもないんだ。私一人がいけないんだね。ただ自分がそういう心持で、筆を持っちゃどうしても真劒になれんから、なれるという人の心持が想像されない。真の文学者の心持が解らん。だから真劒になれるという人があれば私は疑う。が、単に疑うだけで、決してその心持にゃなれぬと断定するまでの信念を持っている訳でもない。雖然《けれども》どう考えても、例えば此間盗賊に白刃《はくじん》を持て追掛けられて怖かったと云う時にゃ、其人は真実《ほんと》に怖くはないのだ。怖いのは真実《ほんと》に追掛けられている最中なので、追想して話す時にゃ既に怖さは余程失せている。こりゃ誰でもそうなきゃならんように思う。私も同じ事で、直接の実感でなけりゃ真劒になるわけには行かん。ところが小説を書いたり何かする時にゃ、この直接の実感という奴が起って来ない。人生に対するのが盗賊に追われた時の心持になって了う。議論から考えて見ると、人生というものが何も具体的にそこに転がっている訳じゃない。斯うやって御互
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