ゥら女性の行爲を判定する裁判組織になつてゐる。
 彼の女は僞署をした、そしてそれを誇りとしてゐる。夫に對する愛から、夫の生命を救ふためにしたことだからである。ところがこの夫は平凡な名譽主義から法律と同じ立場に立つて、男性の眼からこの問題を取扱ふ。
 精神上の葛藤。權威に對する信念に壓せられ眩惑せられて、彼の女は子供を養育する道徳上の權利と能力との確信を失ふ。苦惱。近代の社會では母はある種の昆蟲のやうに、種の繁殖の義務を果たすと、去つて死んでしまふ。生の愛、家庭の愛、夫や子供や家族の愛。そここゝに女らしい思想の破綻。心配と恐怖の突然の囘歸。すべてそれを彼の女ひとりで持ちこたへなくてはならない。大破裂が必然、不可避的に近づいてくる。絶望、煩悶及び破壞。
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 大體これだけの着想から、漸次それに具體的形を與へて行つたものと見える。この着想の次には人物を列記して
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シュテンボルグ  書記官
ノラ       その妻
リンド孃(夫人) (未亡人)
辯護士クログスタッド
カーレン     シユテンボルグ家の保姆
シュテンボルグ家の女中一人
使の男一人
シュテンボルグ家の三人の子供
醫師ハンク
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 これで見ると、主人公のヘルマーといふ名はまだこの腹案には出てゐない。却つて領事の名が主人公の名になつてゐる。筋書及び草案のそれが第三幕からヘルマーといふ名に變つてゐる。
リンデン夫人もリンドといふ名で、夫人だか、未亡人だか、娘だかまだ定まつてゐない。醫師ランクは醫師ハンクとなつてゐて、草案の第二幕からランクとなつてゐる。そこでこの人名の次に三幕にわけた略筋があり、それから本文の草案になつてゐるのであるが、略筋によると、第一幕では、重大な色どりになる醫師ランクがまだ出てこないで、第二幕から出てくる。草案ではもう第一幕から現はれる。またノラがパン菓子を喰ふことは略筋にも草案にもない。從つてこの劇の第一幕で最も輕快な味のある場面、ノラがリンデン夫人とランクを相手に「ランク先生、パン菓子を召し上りませんか」とその口に菓子を入れてやる邊から、「馬鹿つ? と言つたらどんなにいい氣持でせう?」のところなどが草案にはまだ全く缺けてゐる。

       九

 また『人形の家』の色彩の中心になつてゐるタランテラ踊(タランテラ踊はイタリヤの毒蜘蛛タランチユラに刺されたものが、筋肉の痙攣を起こして舞踏するやうな樣子をして苦しむところから、その形に似た踊の名となつたものだと言ひ傳へられてゐる)のことは、略筋にも草案にも全く出てゐない。完成本に始めて現はれてくる。從つて第二幕の如きは、ほとんどすべて完成本で見るやうな面白い場面を逸してゐる。結末、ノラが狂亂的にタランテラを踊つてヘルマーを引とめるところは、その代りに、ピアノをひいて、『ペール・ギュント』の中にあるアニトラの歌を唄つたり踊つたりするが、ランクとの對話でノラが踊りの衣裳を見せたり、絹の靴下でランクを打つたりする微妙なところはあり得ない。のみならずランクがノラに對して自分の心を打明ける前後から、ノラが「私にさういつて下すつたのが惡いんです。おつしやる必要はなかつたのでせう?」といふ臺詞の邊、この劇の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話として最も趣味の深い一節が草案ではまだほとんど出來てゐない。
 第三幕は草案と完成本と甚しく違つてゐない。こゝはノラをして婦人の自覺、解放を説かしめるところであるから、問題劇としては一篇の骨子にあたり、イブセンもおそらく初から動かすべからざる腹案を持つてゐて書いたのであらうと思はれる。それでも所々肝要のところに、草案から完成本へと改善せられて行つた跡が見える。領事シュテンボルグの假裝舞踏會といふのもなくタランテラ踊もないから、ノラは夜會服を着ただけで、夫婦は子供の會へ行く。あのじみな家の中に花やかな踊子姿をしたノラがでてきてこそ、後の大破裂の場面との色どりもおもしろいのであるが、草案ではまだその考へがついてゐなかつた。またランクが「この次の假裝會には、見えないものにならうと思ふ」といふやうなよい場面も出來てゐない。
 愈※[#二の字點、1−2−22]最後にノラとヘルマーとが對決するところ以下は、前にも言つた如く大體において草案と完成本と同一であるが、例へばノラが「お許し下すつてありがたうございます」といつて別室に這入り「人形の衣裳をぬぐのですよ」といふところは、その「人形の衣裳をぬぐ」といふことに全篇の意味と響應する象徴的な味があるのを、草案ではまだ「氣を落ちつけなくちやなりません、ちよつとの間」と極はめて無意味にいはせてある。またヘルマーが「幾ら愛する者の爲だつて、男が名譽を
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