Bその一は千八百九十年の『英國繪入雜誌』(English Illustrated Magazine)に出たウォルター・ビザントの『人形の家――及其後』(The Doll's House―and After : Sir Walter Besant)で、それによるとノラの娘とクログスタッドの倅とが大きくなつて結婚約束をする。ヘルマーはノラの去つた後亂酒漢になつてしまふ。クログスタッドは倅のこの結婚が不賛成で、ノラの娘の兄弟が書いた僞證で娘を恐喝し、娘はそのために水に身を投げる。
 またアメリカのイドナ・ダウ・チーニー夫人といふ女子參政權論者の女作家は少しおくれて『ノラの歸參、ヘンリック・イブセンの人形の家の後日談』(Nora's Returne; a sequel to The Doll's House of Henrik Ibsen : Mrs. Edna Dow Cheney)と題する小册子を著はした。これでは、ノラは、家を出た後看護婦として教育せられ、コレラの流行に際してヘルマーがそれに罹つたのを看護するため、身分を隱して昔の自分の家に雇はれ、再び彼れの命を救つてやる。病氣が恢復しかけたとき、ヘルマーは看護婦姿のノラをそれと心づき、こゝにめでたく仲なほりして夫婦元どほりになるといふ筋であるといふ。
 その他『人形の家』を滑稽の材料にしたパロデ※[#小書き片仮名ヰ、142−13]ーの類では、千八百九十三年に出來た『ポンチ氏の袖珍イブセン』(Mr. Punch's Pocket Ibsen : F. Anstey)が最も有名で『人形の家』のほかに『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガブレル』『鴨』『建築師』等の作りかへをも加へてある。

       七

 これ等は要するに眞面目に論ずべきものでないが、「妻として夫や子供を棄てる法はない」といふ批難に對して、イブセンが作の上で一種の答辯を與へたものと評せられるのは、『人形の家』につづいて出た『幽靈』である。『幽靈』ではアルヴ※[#小書き片仮名ヰ、143−2]ング夫人が、放埓な夫を棄て子供を棄てゝ家を出ようとしたが、思ひ直して家に留り、家庭の罪惡を子供にも世間にも知らせないやうに、一身を犧牲にしてこれを糊塗してゐた。けれども最後になつて、愛子オスワルドは父の放蕩の報ひを受けて無殘の死を遂げ、一家悲慘の運命に終る。ノラもあの時決心を飜して家に留まつたとしても、それが決して幸福を齎らす所以ではない。といふ意味をこの作に求めようとするのである。
 またノラとヘルマーと、對當の自覺ある個人として結婚したのでないやうな場合に、結局どうすればよいか。この問題に、イブセンが一の解釋を與へたものと言はれる作は、『海の夫人』である。この劇では、エリーダが同じく不當の結婚を自覺し、それから脱して自由な神祕な海の情人の方へ引つけられやうとする。已むを得ずして、夫※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ングルは、それでは自由にしてやるから、一切の責任をエリーダ一人で負うて進退を決せよといふ。自己の自由を許され、責任を負はされて見ると、はじめて夫の家を去るのが自分の本望でないことがわかり、獨立した一個人として改めて夫や先妻の子供等と愛を誓ふ。先づ獨立した自由な一個人になる、その上でほんたうの愛が成りたつたら、そこにほんたうの結婚も成り立つ、といふのがその解釋である。
 こんな風に、婦人の自覺問題、解放問題、結婚問題としてほとんど論文を讀むやうな態度でこれ等の作に對するのがイブセンの本意でないことは前に言つた通りであるが、それと同時に、その奧から放射してゐる人間の光り、生命の熱ともいふべき力が、これ等の問題と切り放ち難い關係を持つてゐることも明かである。この點からいへば、『人形の家』『幽靈』『海の夫人』の三作は、相通じて一の哲學を成すとも見られる。

       八

 イブセンの死後、千九百九年に彼れの作の草稿が公にせられた。その中に『人形の家』もある。今その最後の草稿と思はれるものと完成した『人形の家』とを比較してみると、種々の點に興味がある。その草稿は『近代悲劇稿』と題し、千八百七十八年十月十九日、ローマにてとして、まづ次のやうな着想が書いてある。
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 精神上の法則に二種ある、二種の良心である、一は男子に、他の全く異なつた一は女子に。男子と女子とは互に理解しないで、實際の生活では、女子は男子の法則で判定せられる、あたかも女でなくて男ででもあるやうに。
 この劇中の妻君は何が正で何が邪であるかの觀念を有しないで終る。一方には自然の感情、一方には權威に對する信念が、全然彼の女の歸趨に迷はしめる。今日の社會では女子は女子たることが出來ない、今日の社會は全然男性の社會で、法律は男が造り、男性の見地
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