ャえかねて旅行鞄を落して)あゝ、私、自分にはすまないけれど、このまゝ振りすてゝは行かれない(戸の前に半ば體を沈める)
ヘルマー (喜ぶ、優しい聲で)ノラ! (幕)
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かういふ改作が原文の精神を破壞して淺薄なものにしてしまふことは云ふまでもない。であるから、イブセンは已むを得ずして書いたこの改作に關し、次のやうな手紙をヴ※[#小書き片仮名ヰ、139−8]インの一劇場監督者ハインリヒ・ラウベ(Heinrich Laube)に送つた。
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千八百八十年二月十八日、ミュンヘンにて
拜啓――小生の近作『人形の家』が令名ある貴下の監督の下に「ヴ※[#小書き片仮名ヰ、139−11]イン市劇場」にて開演せられ候由承り大悦罷在り候。
貴下はこの劇がその結末の彼れが如くなる故をもつて正當にいはゆる「劇」の法則に合ひたるものに非ずとの御意見の由、しかしながら、貴下は眞に法則といふが如きものに多くの價値をおかれ候哉。小生の考へにては、劇の法則は如何やうにも變ぜられ得べく、法則をして文藝上の事實にこそ從はしむべけれど、逆に文藝をして法則に從はしむべきものに非ずと信じ候。この劇が現在のまゝの結末にてストックホルムにおいても、クリスチアニアにおいても、コーペンヘーゲンにおいても、ほとんど空前の成功を收めたるに徴して、この理は明かと存じ候。結末を變更したる作は、小生がこれを必要と認めたるがためにはこれなく、ただ北ドイツの一劇場監督者と、同地方の巡廻興行にてノラに扮する一女優との求めに由りたるものに候。右改作の寫し一部こゝに御送附申上候。御覽の上、かゝるものを用ふるは徒らにこの作の效果を弱むるに過ぎざることを御了知下されたく、希望の至に御座候。小生は貴下が必ずこの劇を原作のまゝにて御演出下され候ことと信じて疑はず候。
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[#地から2字上げ]頓首
尚こんな改作をせざるを得なかつた事情については、デンマルクの『ナチョナール・チデンデ』紙に寄せた、次のやうな書簡がある。
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千八百八十年二月十七日、ミュンヘンにて
記者足下――尊敬する貴紙第千三百六十號において拜見せしフレンスブルグよりの一書面によれば、『人形の家』(ドイツにては『ノラ』)は彼の地にて劇の結末を變更して演ぜられ、その變更は明かに小生の言ひつけにて爲されたるものと有之候。この末文は事實に無之候。『ノラ』の發行せられて間もなく、これが飜譯者にしてまた北ドイツの諸劇場に對する小生の事務監督者たるベルリンのヴ※[#小書き片仮名ヰ、140−13]ルヘルム・ランゲ(Wilhelm Lange)氏より書面まゐり、それによれば、この劇の結末を變更したる一飜案が發行せらるゝのおそれあり、さすれば、北ドイツの諸劇場中には、多分その方を選びて興行するものあるに至るべしとのことに候ひき。
かゝる出來事を防がんため、小生は絶對的に必要なる場合を慮り、結末の場を變更したるものをランゲ氏まで送附いたし候。即ちノラは家を去らずして、無理にヘルマーに連れられ子供等の室の前に來たり、ちよつとしたる臺詞ありて、戸のところにくづをるゝ、幕下る、といふ場面に御座候。この變更は、小生みづから、飜譯者まで書面にて申遣はし候通り、この劇に對する「野蠻なる暴行」として呪ひ居り候。この改作の場面を用ふるは全然小生の意志に背きたるものに御座候。ドイツ劇場の多くはこれを用ひざるべしと信じ候。
ドイツとスカンヂネヴ※[#小書き片仮名ヰ、141−5]アとの間に文學上の便宜の存せざる限り、我々スカンヂネヴ※[#小書き片仮名ヰ、141−5]アの作家は當國の法律の保護を受くる能はず、ドイツの作家のスカンヂネヴ※[#小書き片仮名ヰ、141−6]アにおけるもまた同樣に御座候。從つて小生等の劇は、ドイツにおいては、飜譯者、劇場支配人、舞臺監督者及び小劇場の俳優等が暴行に委せられ居り候。小生の作がこの危險に瀕する場合には、小生は經驗の教ゆるところにより、暴行を小生みづから行ひて、もつて一層不注意未熟なる人々の手に取扱はれ飜案せらるゝことを避け申候。
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[#地から2字上げ]頓首
當時ドイツでは一般にノラが家を去るのを批難してゐた爲にかやうなことが起こつたのである。
六
『人形の家』の結末に對する世間の批難は、多く「いくら自分の教育の爲だつて妻が夫を棄てて家を出る法はない、ことに子供を棄てゝ出られるものではない、出た後のノラはどうするのだらう」といふのであつた。そこで、イブセンみづからの右の改竄をはじめとし、世間にもこの通俗的な要求を充たすために種々の作が『人形の家』を種にして現はれた。『後の人形の家』ともいふべき種類のものである
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