lliers de L' Isle Adam)と題するものである。フェリックスとエリザベットと、夫婦きりの劇で、エリザベットは夫の打算的な性向に堪え得ずして、終に家を棄て去るが、しかし間もなく歸つてきて、結末はめでたく收まる。その中に次のやうなエリザベットの臺詞がある。
「わからない人ね、私は生きたいのですよ。誰れだつて生を樂しみたいと思ふのが當然だとは思ひませんか? 私、ここにゐると息がつまるやうですよ、もつと眞劍なことがほしいのですよ、廣い天の空氣が吸ひたいのですよ! あなたのお札《さつ》が墓場へ持つて行けますか? どのくらゐ私たちは生きられるものだとお思ひなすつて?(間をおいて、考へ込んで)生きる?――私、生きたいとさへ思ふか知ら? 戀人! あなたさうおつしやつてね。お氣の毒さま、違ひます! 戀人なんか私にはありません、この後だつて決して持ちません。私は夫を愛するやうになつてゐました――御覽なさい――そして私が夫から求めたものは、ちらりとでもいゝから、人間の同情でした。それが今ではもう消えてしまつて、愛の誇りなんか私の血管の中で氷りついてゐます。あなたは私が何も知らないで、氣を揉んでゐる間に、私の氣ちがひじみた嬉しさで永久にと思つて捧げるものを、塵芥のやうにひつたくつておしまひなすつたのね。(下略)」
 そして彼の女が義務として爲すべきことをした結果はどうかといふと、たゞ彼の女の若さは亡ぼされ、彼の女の美しさは消え、貴い夕べは簿記帳によつて汚されたに過ぎない。彼の女はもうここに殘つてその義務を果たす力を失つてしまつた。これから少しの自由を樂しまなくてはならない、廣い地平線を見なくてはならない。それが爲に彼の女はたうとう夫と子供を跡にして出て行つた。取り殘されたフェリックスは絶望して卒倒する。けれども次の場でエリザベットは夜明けがたに歸つて來てゐる。
「もう遲かつた!――私にはもう氣力がなくなつてゐる。馬車の窓から夜の暗い中を覗いたとき、自由はいくら欲しくても、私の心は沈んでしまつて、漂泊者といふ冷い感じが身に沁みてきた。鉛の鎖で繋がれたやうな氣持(中略)何處へ行つていゝかわからなくなつて、冷たい朝の空氣に顫えて、私は歸つてきた(下略)」
 といふとフェリックスは「御覽、私だつてつまりそんなに獸ではない」といつて妻の手に接吻する。エリザベットはそれをじつと見おろして、悲しげに、「氣の毒な人!」といふのが終りである。妻が家を出る前後の樣子や、そのあとでの夫の樣子などまで、『人形の家』のノラとヘルマーとの場合に、どこか似たところのあるのは事實である。けれどもイブセンが『人形の家』を書くとき『謀叛』を讀んでゐたか否かは知る由がないから、『人形の家』を『謀叛』から脱化し、若しくは『謀叛』に似せたものだとはいへない。證據のない限りは無關係なもの、暗合したものと見ておくのが至當である。イブセンが、つい十年前に出た他人の作の外形を摸倣する人とも思へないし、著想はすでに『謀叛』よりも早い自作の『青年同盟』に明かにその端緒を見せてゐるのである。かつ『謀叛』は劇としての價値も到底『人形の家』に及ばない。その滑かな饒舌の臭を帶びた臺詞も古いし、感情の誇張、粗大なところも古い。やはりイブセン以前の物といふ感じを免れない。劇の結末は兩者全く相違してゐるのは言ふまでもないが、『謀叛』の結末は、『人形の家』のノラが家を出たきりでその後どうなるであらうかといふ問題をあとに殘してゐるのに比して、答を與へた趣がある。けれどもそれは、エリザベットが悟りを開いて滿足して歸つてきたのでなく、たゞ自分にはもう解決の氣力がなくなつたといつて悲しく歸つてきたのであるから、實は答でなくして問題はそのまゝ殘つてゐるのである。

       五

 それに比べれば、イブセンが通俗趣味に強要せられて結末を變更した、有名な改作の『人形の家』では、親子の愛といふもので解決を與へて、問題を問題としないうちに揉み消してしまつた。今その改作された結末を譯載すると、本書一二六頁の十六行目以下が次のやうに變はる。
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ノラ 二人の仲が本當の結婚にならなくてはなりません。左樣なら!
ヘルマー しかたがない――行け!(ノラの手を把つて)併しその前に子供にあつて暇乞をしなくちやいけない!
ノラ 放して下さい! 私、子供にはあひませんよ! つらくてあへないのですもの。
ヘルマー (左手の戸の方にノラを押しやり)あはなくちやいけない!(戸を明けて靜かに云ふ)あれを御覽、子供等は何も知らないで、すや/\眠つてゐる。明日目をさまして、母の跡を慕ふ、その時はもう――母なし子。
ノラ (顫へながら)母なし子!
ヘルマー ちやうどお前もさうであつた。
ノラ 母なし子!(
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