平一郎と冬子はそこで下りた。平坦な大路に早春の微風が暖かく吹いていた。平一郎は黙って冬子の後について歩いた。卵黄色の陶煉瓦の四層の貴金属商の建物が赤い煉瓦の貿易商会と対《むか》い合っている横路、その横路には格子戸をいれたしもたや[#「しもたや」に傍点]や土蔵造りの問屋が並んでいた。横路にまた細い横丁があった。その小路の一筋へ、溝板《どぶいた》を踏んで冬子は入った。右手は高い黒板塀で、左手に、路の中ほどに新しい精巧な格子戸を入れた家の軒に電燈が灯いていた。冬子は「ここですのよ、わたしの家は」と言った。
「玉や、いるの、お留守番御苦労様」
「はい」と上り口の磨硝子のはいった障子を十七、八の女中が開けた。
「お帰りあそばせ。随分待ち遠しうございました。御新造様」
「そう、御苦労だったわね」冬子について平一郎もあがった。上り口が三畳でそこは押入らしく襖になっている。次の室が八畳でやはり押入らしく襖がとってある。平一郎は黙って三畳に佇んでいた。
「玉や、すぐに鴨南蛮を四つ言って来ておくれ」
「はい」
「それから、旦那様はまだいらっしゃらないかい」
「はい。今日は少し遅くなるかも知れないってさっきお電話でございました」
「そう」
 玉は外へ出て行った。平一郎は八畳の明るい部屋に出て、一体「電話」が何処にあるのかしらと部屋中を見廻した。電話らしいものは見えなかった。ただ、部屋中があまりに磨かれ、調度が精巧すぎ繊細すぎて、大らかな感じが少しもしないのを認識した。彼は小さい光った長火鉢の前に冬子と正面に向い合って、さてどうしたものか(気の毒さ)を感じたのである。彼が感じたはじめての感銘が(気の毒さ)であったとは。
「ここは貴方のお住居ですか」と平一郎は思わずたずねた。
「ここ? そうですの。どうして?」
「随分狭いですね」
「そう、随分狭いわね」冬子は微笑して、「まだこの後ろにね、大きな家があるんですのよ。ここはほんのわたしの寝所ですの、ね」
 冬子は囁くように話したが、あたりがあまりに静寂で、高く響いた。今のさき過ぎて来た都会の騒音はなかったことのようにここへは響かなかった。都会の中央の激しい渦巻きの中にこのような静かな空間と時が潜んでいることを知る人は知るであろう。冬子は茶を入れたり菓子を出したりした。平一郎は空腹を感じていたのでその菓子を残らず食った。
「腹が空いてしまった」平
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