一郎が言ったので冬子もこれには吹き出してしまった。そしてこの偶然な笑いが、平一郎が上京しない前からどうしても平一郎にゆっくり了解させて置かねばならないと思案していたことを自然に言い出す機会となった。
「お腹が空いて? 今すぐ玉がお蕎麦を持って来ますからね。それよりか平一郎さん、わたし少し平一郎さんに承知して戴いて置きたいことがありますのよ――」と冬子ははじめた。彼女は伏目になって、言葉の切れ目切れ目に平一郎を真率《しんそつ》に見上げた。
「こんなことを言わなくても平一郎さんは何もかも承知していらっしゃるでしょうけれど――わたしという人間はつまりこの世に生きていないものと常々思っていなくてはいけませんのですよ。わたしは天野の旦那様のかくし女《め》――ね、分ったでしょう。そのわたしが平一郎さんをお世話するということは、出来ないことでしょう。生きていない『幽霊』が人のお世話をすることは出来ないはずですわね。それで今度も表向きは平一郎さんをお世話したのは、同じ国から出なさった奥山さんのお世話という風になっているのですからね。その辺の弁《わきま》えをよくして戴かないとわたしも平一郎さんも旦那様も奥山さんも皆が途方にくれるようなことが起きるのですから。――分ったでしょう。冬子という人間は居ないものと思っていて下さればよいのです」平一郎は冬子の言葉に悲しい感情を得た。「天野様のお邸には若様と奥様と女中さんが五人ばかりと爺やさんがいるのですから、下々の人達に憎まれないように、奥様や若様にも一生面倒を見て頂く気でなじんでゆくようにしてね、――そうでしょう、若様はたしか慶応の理財科へ行っていらっしゃるのですから、仲良く勉強なすって、ね、――いまに旦那様の片腕になるようにならなくちゃ、平一郎さん、いけませんのよ。ほんとに旦那様のお骨折といったら大したものなんですから、ね」
自分は、頼りとする冬子の生存を常に否定していなくてはならない。そしてその冬子は、天野の愛する女であり、自分はその冬子の世話で天野の邸にはいって天野の世話で学問するのである。そして邸の天野の夫人や息子には冬子の生存をまるで知らないものとして虚偽を犯し、同時に彼等と一生を共にする覚悟で親しみ合わなくてはならない。――そうした複雑な虚偽と真実をよりまぜた芝居じみたことが自分に出来るであろうかという疑迷が黒雲のように平一郎の
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