地上
地に潜むもの
島田清次郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)空《す》いていた。

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)度々|彷徨《さまよ》い歩いた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1−8−77]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)彼はむく/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

[#ここから12字下げ]
虐げらるゝ者の涙流る
之を慰むる者あらざる
なり  ――傳道之書
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
     第一章




 大河平一郎が学校から遅く帰って来ると母のお光は留守でいなかった。二階の上り口の四畳の室の長火鉢の上にはいつも不在の時するように彼宛ての短い置手紙がしてあった。「今日は冬子ねえさんのところへ行きます。夕飯までには帰りますから、ひとりでごはんをたべて留守をしていて下さい。母」平一郎は彼の帰宅を待たないで独り行った母を少し不平に思ったが、何より腹が空《す》いていた。彼は置かれてあるお膳の白い布片を除けて蓮根の煮〆に添えて飯をかきこまずにいられなかった。そうして四、五杯も詰めこんで腹が充ちて来ると、今日の学校の帰りでの出来事が想い起こされて来た。今日は土曜で学校は午前に退《ひ》けるのだった。級長である彼は掃除番の監督を早くすまして、桜の並樹の下路《したみち》を校門の方へ急いで来ると、門際で誰かが言いあっていた。近よってみると、二度も落第した、体の巨大な、柔道初段の長田が(彼は学校を自分一人の学校のように平常《ふだん》からあつかっていた)美少年の深井に、「稚子《ちご》さん」になれ、と脅迫しているところだった。
「いいかい、深井、な」と長田は深井の肘をつかもうとした。
「何する!」深井は頬を美しい血色に染めながら振り払った。
「え、深井、己《おれ》の言うことをきかないと為にならないよ」長田の伸ばす腕力に充ちた腕を深井はしたたかに打った。そうして組み打ちがはじまった。無論深井は長田の敵ではなかった。道傍の芝生に組み敷かれて柔らかくふくらんだ瞳からは涙がにじみ出ているのを見たときには、平一郎は深井の健気な勇気に同情せずにいられ
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