、到底、いま目前に悠然と寝そべっているこの男に対してはあまりに見窄《みすぼ》らしい、比べものにならないものだという羞恥がこみあげて来た。血が上気した。長い間、幾年の間、潜め隠していた冬子の熱情の泉が一斉に全身に溢れ出た。端厳な品位を、一生に一度の熱情の美しさが一斉に内から輝かしたのだ。彼女は俄かに能動的な力を得たように思えた。彼女のこの珍しい美は、厳粛なうちに、充ち溢れる若さに燃えた美しさは、彼女の生涯の奇蹟であった。夢みるような鈍い半眼は開かれ、鋭い眼光がこの女性、冬子の燃ゆる美しさをじっと見逃さずに吸収していた。名刀の冴えた刃が燃えているような美しさ。人間と人間が互いに互いの価値を認識するあの崇厳な一瞬間があった。それは人生の苦患にもまれつつ、なおそれらの苦しみに打ち克って来た人間相互の間に存在する、深くて、質実で、味わいの無限な感情である、と冬子は思った。同性においては知己となり、異性においては恋よりも深い恋となる感情である。
「お初にお目にかかります」冬子は粛やかに礼をした。そして、二人の土地の素封家が残して行った革蒲団や、小さな莨盆や茶椀を片隅へ仕舞いかけているところへ女中がはいって来て、自分の来ようの遅かったのを言い訳して茶道具などを運び去った。冬子は、人間の本質に触れた者の感じる慕わしさといそ/\した犠牲を拒まない心持になっていた。彼女は彼に茶をすすめた。彼は彼女の茶をすすめたのを知らないように見えた。真実に知らないのか、知っていて知らない振りをするのか、彼女には分らなかった。あまりに初心な生娘のような気配であることを自覚しながら彼女は「あのお茶を――」と言いかけて自分が今まるで無能力な状態になっていることを反省して自分に恥じた。
「ありがとう」
 彼は何事もなかったように茶を飲み干した。そしてまるで久しい馴染のように話しかけた。
「今夜の七時にここへ着いたばかりだよ」
「さようでございますか」
「もう何時かな」部屋の片隅の置時計が十時二十分を指していた。
「十時二十分過ぎでございます」
「暫く世話になるから――冬子と言ったね」
「はい」
 この部屋と簀戸《よしど》越しの次の室にこの時|蚊帳《かや》を吊る吊り手の金環の触れ合う音や畳摺れの音が聞えた。簀戸が静かに開けられて、女中が手をついて「お床を敷きましてございます」と言った。草色の衣《きぬ》で蔽われ
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