た電燈の光は縫い目のない蚊帳を海底のように染めて、微風に衣が揺らぐ。冬子は敷かれた二つの床を見た。「思想」になりきらない異様な感情が胸のうちに圧迫して来た。
「あの、お風呂をわかしてございますから、一風呂お浴《あ》びになってお寝《よ》りなさってはいかがでございましょうか」
「入るよ」地面に食い入ったようだった彼の体躯が、むっくりと起きかえった。
「お前は――」
「わたし――」
「そうか、わたしひとりで入って来よう」
 女中に導かれて、六尺豊かな肉付のしっかりと肥えた体躯の持主が幽《かす》かな足音もさせないで部屋を出て行った。冬子はひとり坐ったまま、ほてった熱情の渦巻を感じていた。吹き入る川風の揺れる蚊帳の中の二つの床が彼女の目前にあった。その床が自分に何を暗示し要求するのか。自分があの男と同じ蚊帳の中で眠る。彼女はある一つのことに神経が触れたとき、全身の血行をじっと動かさずに考え込まねばならなかった。(ああ、あの男に今、旅の芸妓の自分として接することは苦しい!)
「あの、お楼からの荷物は次の月の間《ま》に置いてありますから」
 さっきの女中である。冬子は「そう」と言ったきり答えなかった。(はやく次の間で着物を更《か》えて、彼の来ないうちに寝支度をしてくれ)の意味であろう。それは……出来ない。身体の工合が悪いといって無理にかえることも……出来ない。(芸妓として、自分のこの稀に生まれた真情を買われたくなさ)で冬子の胸は一杯になった。
「あの、冬子さん、着物を更えなさらなくては?」と女中がまた言った。
「わたしこのままで居りますわ」
「でも――それじゃ」
「これでいいですの」彼女は強く言い切った。星のきらめく青空が仰がれた。
「鼓はもって来てあるでしょうか」
「ええ、何から何までみな来ていますのよ」
 ああ、こうして澄んだ夜、思い切りあの壮快な鼓を、打って打って打ち明かしたいと冬子は思った。何んの宿屋の女中、ああ、たかが「有名な」実業家――身辺の一切を越えてあの天地に響く生物の皮の音色が彼女の身内から奔流のように湧きのぼるのだった。
「いい星空ですのね」冬子は傍の女中をかえりみた。すると天野が静かに縁側に来て立ったまま同じように広大な深い夜の空を仰いでいた。
「お星様が出ていますこと」女中の追従には答えないで、天野は冬子の方をじっと、大きな眼で見た。冬子はゆるやかな感情に
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