弁《わきま》えていて、長いことではない、三日ばかりの御滞在を退屈のないように身の廻りの御不自由のないようにやって貰いたいと思っているのです。な、分ったろうな」
冬子はただ首肯《うなず》いて見せた。自分を道具に見ている老獪で卑しい市長を悲しく思わぬでもなかった。が、わけを聴いてみれば「自分の今の境遇と今の世間」では、寧《むし》ろ「光栄」であるのかも知れない。無限な人生の流れゆく相の一つ、その一つに冬子は自分の運命、お光母子の運命を負って流れ這入ったとは知らなかった。
「冬子さん、どうぞこちらへ来て頂戴」
女中が先に立った。幾度も通ったことのある畳廊下を冬子は沈着《おちつ》いた心持で歩くことが出来た。重厚なやや古びた造作が親しみ深い。そして川風がせせらぎの音につれて、そよ/\と流れ入って来た。大河を後ろに控えたこの家の好い座敷は、河流に近くとられてあった。やがて蒼い夜空、輝く星辰、水晶のような透明な山岳のうねりがくっきりと河流を越えて浮き出て来た。深い崖上に突き出た縁側へ、崖下の暗い森林の静寂から湧くように河瀬のせせらぎが昇ってくる。そして一室から漏れる明るみの流れが森林の上に映っている。(どんな男があの部屋に自分を待っているのか)冬子は暫く立ち止まらずにはいられなかった。(ああ、希《ねが》わくば尊敬するに足る男であってくれ! せめては心からお辞儀の出来る男であってくれ!)幾年の勤めの間に、絶えず裏切られては来たもの、あきらめ切れない「女としての」願いであった。
「あのさっきお話の――」と女中が囁くように言った。部屋では人の動く気配がした。敷居近いところに見覚えのある、この土地の素封家で鉱山主で、実業家の或る男爵と県会議長の某氏が坐っていた。冬子は軽く会釈して、敷居際に膝をつきそっと[#「そっと」に傍点]面を正しく上げて部屋全体を「白刃のような心」で見据えた。電光が輝いていて、薄暗い間を通って来た視覚は容易に部屋の中を明瞭にしなかった。やがてじいっと瞳を据えて見つめている冬子に、しみいるように一人の男のゆるやかな横臥している姿が映った。充実した寛《くつろ》ぎようである。六尺豊かな中肉の体躯を、悠々と部屋の一杯に伸ばしているのが、まるで畳をとおし、階下を通じ、大地の底にしっかり根をおろしたように静かに不壊である。足下に軽く乗せられた羽蒲団の上へ幽かに乗せた右手のふっく
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