茂子は容易に下りて来なかった。女将は思い出して、店に身体が悪くて寝ている小妻を、「小妻さん、小妻さん」と呼んだ。
「はあい」弱々しい返事だ。
「ちょっとここへ来ておくれ」
「はあい」
小妻はまだ昼からの寝巻姿でひどく蒼ざめて、凹《くぼ》んだ眼縁に暗い蔭を見せながら、腰をかがめるようにして出て来た。
「身体はどうだい」
「――」あまりよくないと言おうとしたが、小妻は女将の眼色から何を言おうとしているかを推察すると、「大分いいようです」と言ってしまった。取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。(実際それは取り返しのつかないことであったことは後に知られる。)女将はささやくように幾度もくりかえした事情を細々と語りきかした。そして観世縒を、もう二本になった、そのどっちかには三人の男を割りあてられる、恐ろしい運命の観世縒を差し出した。小妻はどうしてもぬきとる気になれなかった。彼女はさしうつむいていた。恐ろしい感動の伴った争闘が胸中に戦っていた。ああ弱い心! 彼女はとうとう手をさし出してその一本の観世縒を抜きとった。観世縒には不幸な結び目があった。「まあ」と彼女は言って青褪めた顔に、死相を帯びた眼をどんよりすわらせたままがっかりしてしまった。茂子がやって来た。彼女は万事を察してしまった。あまりに悲惨な事実であった。「いいわ」と茂子は言った。彼女は無理に酒を強いられて、今、大きな盃洗に反抗するように満々と注いで一杯飲んで来たところだった。彼女は酔っていた。
「いいわ! わたしが、小妻さんの分も引き受けてあげるから。小妻さん休んでいらっしゃい。いいわ、わたしが引き受けたわ。五人でも十人でも来れたら来てみるがいい。死んでしまうまで、息の止まるまで何十人でも何百人でもわたしのところへ列をつくって、いっときにやってくるがいい!」
「茂子さん、またお酒をあおったの。いいことよ、わたしもうどうなったっていいことよ」
小妻はしなびた顔に涙を光らせた。
「小妻さん、茂子さん――来て頂戴な!」
それは米子と市子であった。階段のところまで誰か追っかけて来たのを振り放って、まだお酌である二人はどうにか下へ逃れて来た。
「今、行きますよ!」
茂子は追いつめられた。猛虎が死物狂いで追いかけて来た敵に跳びかかるように、階段をのぼっていった。哀れな小妻も、歩むことさえ十分でない小妻も、茂子が
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