一生の努力を以て、到頭一篇の創作を全うし得た。
『父さん、これを東京へ持つて行つて出版して下さい。』
打ちふるふ手には五百枚許りの原稿があつた。主人も息子も原稿を真ん中において手を取り合つて泣き伏した。やつれ果てた顔、手、はてはくぼんだ眼、突き出た頬骨、主人は三年の苦しい息子の努力を思ひやつた。真つ白になつた頭の毛、しよぼ/″\になつた其の姿、息子の眼には老ひ行く父が痛ましかつた。
『もう大丈夫だ。』
若い文士は原稿を見詰めて、涙を拭つた。
看病の叔母は耳が遠くなつて仕舞つて、従姉妹はたまに見舞に来ても、もう小説の話などをしなくなつた。
『ほんとにうちの良人の意気地なしにはあきれますよ』
赤児に乳をのまし乍らこんな風なことを口ぎたなく話しあつたりした。
三年と云ふ年月が、あらゆる周囲の人々に一つ/\其の影をきざんで行くのであつた。
(五)[#「(五)」は縦中横]
低いさびた読経の声が、電燈が消されてから又朝迄続いた。一人二人目をさまして、ひそ/\と話し合ふ時分には遠くの方で井戸水を汲む音が聞えて来た。明方の寒さが戸の外から犇々《ひしひし》と迫つて来た。
『お天気
前へ
次へ
全13ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング