あつたりした。主人は三拾幾つの壮年時代で、芸者上りの若い最愛の妻は二十三四の年頃であつた。秋の冷つこい気持のいゝ朝など、赤い手柄の細君の丸髪姿が滴る様な杉の木の間にちらついて居た。隣の遠い此の家のこととて、晴れやいだ嫁の笑ひ声が広い四辺《あたり》の自然の天地に展がつてゐた。
 気が狂つて死んだ妻の顔※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 其の頃一人の息子はもう中学へ入つて居た。
 而して十年の年月が経つた。主人の頭には白毛が見え出した。息子が早稲田に在学の時分、主人は風邪の気分で臥《ふせ》つてゐた。其の時分未だ嫁に行かない末の従妹………が泊り合はせて看護してゐた。ぽつかりとした春の日の午後で裏の畑に茶の花が奇麗に咲いてゐるのが、硝子越で見えてゐた。
『伯父さん郵便。清さんからの。』
 と持つて来た郵便小包を受取つた主人は直様、紐を解き初めた。
『なんだらう』
『さあ、何んですかね。』
 中からは表装の奇麗な白いクロースの本が出て来た。
『や、清が著作したんぢや。』
 主人は赤い顔をにこつかせ乍ら、紅文字の『赤倉清』を指さした。表紙の上には同じ紅い文字で「若き日の影」としてあつた。
 主人は
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