りに長く長城のごとくに組み立てられた。省作もおとよさんのおかげで這い回るほど疲れもせず、負恥《まけはじ》もかかず済んだ。おはまがもしおとよさんのしぐさを知ったら大騒ぎであったろうけれど、とうとうおはまはそれを知らなかった。おはまばかりでない、だれも知らなかったらしい。
「今日ぐらい刈れば省作も一人前だなア」
これが姉のほめことばで見ても知られる。のっそり子の省作も、おとよさんの親切には動かされて真底からえい人だと思った。おとよさんが人の妻でなかったらその親切を恋の意味に受けたかもしれないけれど、生娘《きむすめ》にも恋したことのない省作は、まだおとよさんの微妙なそぶりに気づくほど経験はない。
元来はこの秋二軒が稲刈りをお互いにしたというも既におとよさんの省作いとしからわいた画策なのだ。おとよさんは年に合わして、気前のすぐれたやり手な女で、腹のこたえた人だから、自然だいそれたまねをやりかねまじき女ともいえる。
こう考えて見るとただおとよさんが目的を達したばかりで、今日の稲刈りには何の統一もなかった。稲刈りは稲さえ思うだけ刈り上げさえすればよいわけだが、仕事の興味という点からいうと、二軒いっしょになって刈るというところに仕事以外の興味がなければならないのに、今度の稲刈りはどうもそれが欠けておった。清さんはさもつまらなそうに人について仕事をしてるばかり、満蔵もおはまも清さんのお袋もなんだかおもしろくなかった。身上《しんしょう》の事ばかり考えて、少しでもよけいに仕事をみんなにさせようとばかり腐心している兄夫婦は全く感情が別だ。みんながおもしろく仕事をしたかどうかなどと考えはしない。だからこんな事はつまらんとも思わない。ただ若いものらが多勢でやりたがるからこれに故障を言わないまでのことだ。ほかの人たちはそうでない。多勢でしたらおもしろかろうと思って二軒いっしょにお互いこの稲刈りをしたのだが、なんだかみんなの心がてんでん向き向きのようで、格別おもしろくなかった。だから今日のしまいごろには清さんも満蔵もおはまも、言い合わさないでつまらなかったとこぼした。
それはそのはずなのだ。おとよさん一人のために皆が騒がせられたようなもので、いわばみんながおとよさんにばかにされたのだ。だれとておとよさんにばかにされていたと気づきはしないけれど、事実がそれであるから興味がなかったのである。
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