れて、戰鬪は開始したのだ。最早恐怖も遲疑も無い。進むべき所に進む外、何を顧みる餘地も無くなつた。家族には近い知人の二階屋に避難すべきを命じ置き、自分は若い者三人を叱して乳牛の避難にかゝつた。豫て此所と見定めて置いた、高架鐵道の線路に添うた高地に向つて牛を引き出す手筈である。水深は猶ほ腰に達しない位であるから、敢て困難といふほどではない。
自分は先づ黒白斑の牛と赤牛との二頭を牽出す。彼等無心の毛族も何等か感ずる處あると見え、殘る牛も出る牛も一齊に聲を限りと叫び出した。其の騷々しさは又|自《おのづ》から牽手の心を興奮させる。自分は二頭の牝牛を引いて門を出た。腹部まで水に浸されて引出された乳牛は、どうされると思ふのか、右往左往と狂ひ廻る。固より溝も道路も判らぬのである。忽ち一頭は溝に落ちて益※[#二の字点、面区点番号1−2−22、209−4]狂ひ出す。一頭はひた走りに先に進む。自分は二頭の手繩を採つて、殆ど制馭の道を失つた。さうして自分も乳牛に引かるゝ勢に驅られて溝へはまつた。水を全身に浴みて終つた。若い者共も二頭三頭と次々引出して來る。
人畜を擧げて避難する場合に臨んでも、猶濡るゝを恐れて居つた卑怯者も、一度溝にはまつて全身水に漬つては戰士が傷ついて血を見たにも等しいものか、茲に始めて精神の興奮絶頂に達し、猛然たる勇氣は四肢の節々に振動した。二頭の乳牛を兩腕の下に引据ゑ、奔流を蹴破つて目的地に進んだ。斯の如く二回三回數時間の後全く乳牛の避難を終へ、翌日一日分の飼料をも用意し得た。
水層は愈高く、四ツ目より太平町に至る拾五間幅の道路は、深さ五尺に近く、濁流奔放舟を以て渡るも困難を感ずる位である。高架線の上に立つて、逃げ捨てた我が家を見れば、水上に屋根許りを見得るのであつた。
水を恐れて雨に懊惱した時は、未だ直接に水に觸れなかつたのだ。それで水が恐ろしかつたのだ。濁水を冒して乳牛を引出し、身も其濁水に沒入しては最早水との爭鬪である。奮鬪は目的を遂げて、牛は思ふまゝに避難し得た。第一戰に勝利を得た心地である。
洪水の襲撃を受けて、失ふところの大なるを悵恨するよりは、一方のかこみを打破つた奮鬪の勇氣に快味を覺ゆる時期である。化膿せる腫物を切解した後の痛快は、稍自分の今に近い。打撃は固より深酷であるが、きび/\と問題を解決して、總ての懊惱を一掃した快味である。我家の水上僅に屋根許り現はれ居る状を見て、聊も痛恨の念の湧かないのは、其快味が暫く我れを支配して居るからであるまいか。
日は暮れんとして空は又雨模樣である。四方に聞ゆる水の音は、今の自分には最早壯快に聞えて來た。自分は四方を眺めながら、何とはなしに天神川の鐵橋を渡つたのである。
うづ高に水を盛り上げてる天神川は、盛に濁水を兩岸に奔溢さして居る。薄暗く曇つた夕暮の底に、濁水の溢れ落つる白泡が、夢かのやうにぼんやり見渡される。恐ろしいやうな、面白いやうな、云ふに云はれない一種の強い刺撃に打たれた。
遠く龜戸方面を見渡して見ると、黒い水が漫々として大湖の如くである。四方に浮いてる家棟は多くは軒以上を水に沒して居る。成程洪水ぢやなと嗟嘆せざるを得なかつた。
龜戸には同業者が多い。未だ避難し得ない牛も多いと見え、そちこちに牛の叫び聲がして居る。暗い水の上を傳つて、長く尻聲を引く。聞く耳のせゐか溜らなく厭な聲だ。稀に散在して見える三つ四つの燈火が、殆ど水にひツついて、水平線の上に浮いてるかの如く、淋い光を漏して居る。
何か人聲が遠くに聞えるよと耳を立てゝ聞くと、助け舟は無いかア………助け舟は無いかア………と叫ぶのである。それも三回許りで聲は止んだ。水量が盛んで人間の騷ぎも壓せられてるものか、割合に世間は靜かだ。未だ宵の口と思ふのに、水の音と牛の鳴く聲の外には、餘り人の騷ぎも聞こえない。寥々として寒さうな水が漲つて居る。助け舟を呼んだ人は助けられたか否かも判らぬ。鐵橋を引返してくると、牛の聲は幽になつた。壯快な水の音が殆ど夜を支配して鳴つてる。自分は眼前の問題にとらはれて我知らず時間を費した。來て見れば乳牛の近くに若者達も居ず、我が乳牛は多くは安臥して食み返しをやつて居つた。
何事をするも明日の事、今夜は是でと思ひながら、主なき家の有樣も一見したく、自分は再び猛然水に投じた。道路よりも少く低い我家の門内に入ると足が地につかない。自分は泳ぐ氣味にして臺所の軒へ進み寄つた。
幸に家族の者が逃げる時に消し忘れたものらしく、洋燈《ランプ》が點して釣り下げてあつた。天井高く釣下げた洋燈の尻に殆ど水がついて居つた。床の上に昇つて水は乳まであつた。醤油樽、炭俵、下駄箱、上げ板、薪、雜多な木屑等有ると有るものが浮いて居る。どろりとした汚ない惡水が、身動きもせず、ひし/\と家一ぱいに這入つて居
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
伊藤 左千夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング