水害雜録
伊藤左千夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)自《おのづ》から

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)五六|町内《ちやうない》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、面区点番号1−2−22、204−12]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)別れ/\に
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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      一

 臆病者といふのは、勇氣の無い奴に限るものと思つて居つたのは誤りであつた。人間は無事を希ふの念の強よければ、其の強いだけそれだけ臆病になるものである。人間は誰とて無事を希ふの念の無いものは無い筈であるが、身に多くの係累者を持つた者、殊に手足まとひの幼少者などある身には、更に痛切に無事を願ふの念が強いのである。
 一朝禍を蹈むの塲合にあたつて、係累の多い者程、慘害は其慘の甚しいものがあるからであらう。
 天災地變の禍害と云ふも、之れが單に財産居住を失ふに止まるか、若くは其身一身を處決して濟むものであるならば、其悲慘は必ずしも慘の極なるものでは無い。一身係累を顧みるの念が少ないならば、早く禍の免れ難きを覺悟したとき、自《おのづ》から振作するの勇氣は、以て笑ひつゝ天災地變に臨むことが出來ると思ふものゝ、絶つに絶たれない係累が多くて見ると、どう考へても事に對する處決は單純を許さない。思慮分別の意識からさうなるのでは無く、自然的な極めて力強い餘儀ないやうな感情に壓せられて勇氣の振ひ作《おこ》る餘地が無いのである。
 宵から降出した大雨は、夜《よ》一夜《ひとよ》を降通《ふりとほ》した。豪雨《がうう》だ……そのすさまじき豪雨の音、さうして有所《あらゆる》方面《はうめん》に落ち激《たぎ》つ水の音、只管《ひたすら》事なかれと祈る人の心を、有る限りの音聲を以て脅すかの如く、豪雨は夜を徹して鳴り通した。
 少しも眠れなかつた如く思はれたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の音聲におびえて居たのだから、固より夢《ゆめ》か現《うつゝ》かの差別は判らないのである。外《そと》は明るくなつて夜は明けて來たけれど、雨は夜の明けたに何の關係も無い如く降り續いて居る。夜を降り通した雨は、又晝を降通すべき氣勢である。
 さんざん耳から脅された人は、夜が明けてからは更に目からも脅さる。庭一面に漲り込んだ水上に水煙を立てゝ、雨は篠を突いてるのである。庭の飛石は一箇も見えてるのが無いくらゐの水だ。いま五六寸で床に達する高さである。
 もう疊を上げた方がよいでせう、と妻や大きい子供等は騷ぐ。牛舍へも水が入りましたと若衆も訴へて來た。
 最も臆病に、最も内心に恐れて居つた自分も、側から騷がれると、妙に反撥心が起る。殊更に落ちついてる風をして、何程増して來た處で溜り水だから高が知れてる。そんなにあわてゝ騷ぐに及ばないと一喝した。さうして其一喝した自分の聲にさへ、實際は恐怖心が搖《ゆら》いだのであつた。雨は益※[#二の字点、面区点番号1−2−22、204−12]降る。一時間に四分五分《しぶごぶ》位づゝ水は高まつて來る。
 強烈な平和の希望者は、それでも、今にも雨が靜かになればと思ふ心から、雨聲の高低に注意を拂ふことを、秒時もゆるがせにしては居ない。
 不安――恐怖――其の堪へ難い懊惱の苦みを、此の際幾分か紛らかさうには、體躯を運動する外はない。自分は横川天神川の増水如何を見て來ようと我知らず身を起した。出掛けしなに妻や子供達にも、いざと云ふ時の準備を命じた。それも準備の必要を考へたよりは、彼等に手仕事を授けて、徒らに懊惱することを輕めようと思つた方が多かつた。
 干潮の刻限である爲か、河の水は未だ意外に低かつた。水口からは水が隨分盛に落ちて居る。茲で雨さへ歇むなら、心配は無いがなアと、思はず嘆息せざるを得なかつた。
 水の溜つてる面積は五六|町内《ちやうない》に跨つてる程廣いのに、排水の落口といふのは僅に三ヶ所、それが又、皆落口が小さくて、溝は七まがり八まがりと迂曲して居る。水の落ちるのは、干潮の間僅かの時間であるから、雨の強い時には、降つた水の半分も落ちきらぬ内に、上げ汐の刻限になつて終ふ。上げ潮で河水が多少水口から突上《つきあげ》る處へ更に雨が強ければ、立ちしか間に此一區劃内に湛へて終ふ。自分は水の心配をする度に、此處の工事をやつた人の、馬鹿々々しきまで實務に不忠實な事を呆れるのである。
 大洪水は別として、排水の裝置が實際に適して居るならば、一日や二日の雨の爲に、此|町中《まちなか》ヘ水を湛ふる樣な事は無いのである。人事僅に至らぬ處あるが爲に、幾百千の人が、
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