一|通《とほり》ならぬ苦みをすることを思ふと、斯の如き實務的の仕事に、只|形許《かたばか》りの仕事をして平氣な人の不信切を嘆息せぬ譯にゆかないのである。
 自分は三ヶ所の水口を檢して家に歸つた。水は三ヶ所へ落ちて居るに係らず、吾庭の水層は少し増して居つた。河の水はどうですかと、家の者から口々に問はるゝにつけても、茲で雨さへ小降りになるなら心配は無いのだがなアと、思はず又嘆息を繰返すのであつた。
 一時間に五|分《ぶ》位づゝ増してるから、これで見ると床《ゆか》へつくにはまだ十時間ある譯だ。何時でも疊を上げられる用意さへして置けば、住居の方は差當り心配はないとしても、もう捨てゝ置けないのは牛舍だ。尿板の後方へは水がついてるから、牛は一頭も殘らず起つてる。さうして其後足には皆一寸許りづゝ水がついてる。豪雨は牛舍の屋根に鳴音烈しく、一寸した會話が聞取れない。愈※[#二の字点、面区点番号1−2−22、206−4]平和の希望は絶えさうになつた。
 人が、自殺した人の苦痛を想像して見るにしても、大抵は自殺其のものゝ悲劇をのみ強く感ずるのであろう。併し自殺者其人の身になつたならば、我と我を殺す其實劇よりは、自殺を覺悟するに至る以前の懊惱が、遙かに自殺其のものよりも苦いので無からうか。自殺の凶器が、目前に横たはつた時は、最早身を殺す恐怖のふるへも靜まつて居るので無からうか。
 豪雨の聲は、自分に自殺を強ひてる聲であるのだ。自分は猶自殺の覺悟も定め得ないので、藻掻きに藻掻いて居るのである。
 死ぬと極つた病人でも、死ぬまでに猶幾日かの間があるとすれば、其間に處する道を考へねばならぬ。況や一縷の望を掛けて居るものならば、猶更其覺悟の中に用意が無ければならぬ。
 何程恐怖絶望の念に懊惱しても、最後の覺悟は必ず相當の時機を待たねばならぬ。
 豪雨は今日一日と降りとほして更に今夜も降りとほすものか、或は此の日暮頃《ひくれころ》にでも歇むものか、若くは今にも歇むものか、一切判らないが、其降止む時刻に依て恐水者の運命は決するのである。いづれにしても明日の事は判らない。判らぬ事には覺悟のしやうもなく策の立て樣も無い。厭でも宙につられて不安状態に居らねばならぬ。
 乍併牛の後足に水がついてる。眼前の事實は、最早何を考へてる餘地を與へない。自分はそれに促されて、明日の事は明日になつてからとして、兎も角も今夜一夜を凌ぐ畫策を定めた。
 自分は猛雨を冒して材木屋に走つた。同業者の幾人が同じ目的を以て多くの材料を求め走つたと聞いて、自分は更に恐怖心を高めた。
 五寸角の土臺數十丁一寸厚の松板幾十枚は時を移さず、牛舍に運ばれた。勿論大工を呼ぶ暇は無い。三人の男共を指揮して、數時間豪雨の音も忘れるまで活動した結果、牛舍には床上更に五寸の假床を造り得た。かくて二十頭の牛は水上五寸の架床上に爭うて安臥するのであつた。燃材の始末、飼料品の片づけ、爲すべき仕事は無際限にあつた。
 人間に對する用意は、まづ疊を上げて、襖障子諸財一切の始末を、先年大水の標準に依て、處理し終つた。並《なみ》の席よりは尺餘床を高くして置いた一室と離屋の茶室の一間とに、家族十人の者は二分して寢に就く事になつた。幼ないもの共は茶室へ寢るのを非常に悦んだ。さうして間もなく無心に眠つて終つた。二人の姉共と彼等の母とは、此の氣味惡い雨の夜に別れ/\に寢るのは心細いと云うて、雨を冒し水を渡つて、茶室へやつて來た。
 それでも、是れだけの事で濟んでくれゝば有難いが、明日はどうなる事か……取片づけに掛つてから幾度も幾度も云ひ合うた事を又も繰返すのであつた。跡に殘つた子供達に呼び立てられて、母娘《おやこ》は淋しい影を夜の雨に沒して去つた。
 遂に其夜も豪雨は降りとほした。實に二夜と一日、三十六時間の豪雨は如何なる結果を來すべきか。翌日は晃々と日が照つた。水は少しづゝ増して居るけれど、牛の足へも未だ水はつかなかつた。避難の二席にも未だ五六寸の餘裕はあつた。新聞紙は諸方面の水害と今後の警戒すべきを特報したけれど、天氣になつたといふ事が、非常に我等を氣強く思はせる。よし河の水が増して來た處で、どうにか凌ぎのつかぬ事は無からうなどゝ考へつゝ、懊惱の頭も大いに輕くなつた。
 平和に渇した頭は、到底安ずべからざる處にも、強ひて安居せんとするものである。

      二

 大雨が晴れてから二日目の午後五時頃であつた。世間は恐怖の色調をおびた騷ぎを以て滿たされた。平生聞ゆるところの都會的音響は殆ど耳に入らないで、浮かとして居れば聞取ることの出來ない、物の底深くに、力強い騷ぎを聞く樣な、人を不安に引入れねば止まない樣な、深酷な騷ぎがそこら一帶の空氣を振蕩して起つた。
 天神川も溢れ、竪川も溢れ、横川も溢れ出したのである。平和は根柢から破
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