る。自分は猶一渡り奧の方まで一見しようと、洋燈に手を掛けたら、どうかした拍子に火は消えて終つた。跡は闇々黒々、身を動せば雜多な浮流物が體に觸れる許りである。それでも自分は手探ぐり足探ぐりに奧まで進み入つた。浮いてる物は胸にあたる顏にさはる。疊が浮いてる箪笥が浮いてる、夜具類も浮いてる。それ/\の用意も想像以外の水で悉く無駄に歸したのである。
自分は此全滅的荒廢の跡を見て何等悔恨の念も無く不思議と平然たるものであつた。自分の家といふ感じがなく自分の物といふ感じも無い。寧ろ自然の暴力が、如何にもきび/\と殘酷に、物を破り人を苦しめた事を痛快に感じた。やがて自分は路傍の人と別れる樣に、其荒廢の跡を見捨てゝ去つた。水を恐れて連夜眠れなかつた自分と、今の平氣な自分と、何の爲に然るかを考へもしなかつた。
家族の逃げて行つた二階は七疊許の一室であつた。其家の人々の外に他よりも四五人逃げて來て居つた。七疊の室に二十餘人、其間に幼いもの三人許りを寢せて終へば、他の人々は只膝と膝を突合せて坐し居るのである。
罪に觸れた者が捕縛を恐れて逃げ隱れしてる内は、一刻も精神の休まる時が無く、夜も安くは眠られないが、愈※[#二の字点、面区点番号1−2−22、212−4]捕へられて獄中の人となつて終へば、氣も安く心も暢びて、愉快に熟睡されると聞くが、自分の今夜の状態はそれに等しいのであるか、將來の事は未だ考へる餘裕も無い、煩悶苦惱決せんとして決し得なかつた問題が解決して終つた自分は、此數日來に無い、心安い熟睡を遂げた。頭を曲げ手足を縮め海老の如き状態に困臥しながら、猶氣安く心地爽かに眠り得た。數日來の苦惱は跡形も無く消え去つた。爲に體内新たな活動力を得た如くに思はれたのである。
實際の状況はと見れば、僅に人畜の生命を保ち得たのに過ぎないのであるが、敵の襲撃が飽くまで深酷を極めて居るから、自分の反抗心も極度に奮興せぬ譯にゆかないのであらう、何處までも奮鬪せねばならぬ決心が自然的に強固となつて、大災害を哀嘆してる暇がない爲であらう、人間も無事だ牛も無事だよしと云つた樣な、爽快な氣分で朝まで熟睡した。
家《うち》の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66、212−13]《とり》が鳴く、家《うち》の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66、212−13]《とり》が鳴く、といふ子供の聲が耳に入つて眼を覺した。起つて窓外を見れば、濁水を一ぱいに湛へた、我家の周圍の一廓に、ほの/″\と夜は明けて居つた。忘れられて取殘された※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66、212−14]は、主なき水漬屋に、常に變らぬ長閑な聲を長く引いて時を告ぐるのであつた。
三
一時の急を免れた避難は、人も家畜も一夜の宿りが漸くの事であつた。自分は知人某氏を兩國に訪うて第二の避難を謀つた。侠氣と同情に富める某氏は全力を盡して奔走して呉れた。家族は悉く自分の二階へ引取つてくれ、牛は回向院の庭に置くことを諾された。天候情なく此の日又雨となつた。舟で高架鐵道の土堤へ漕ぎつけ、高架線の橋上を兩國に出ようといふのである。我に等しき避難者は、男女老幼、雨具も無きが多く、陸續として、約二十町の間を引きゝりなしに渡り行くのである。十八を頭に赤子の守兒を合して九人の子供を引連れた一族も其内の一|群《むれ》であつた。大人は勿論大きい子供等はそれ/\持物がある。五ツになるのと七ツになる幼きものどもが、我儘も云はず、泣きもせず、覺束ない素足を運びつゝ泣くやうな雨の中を兎も角も長い/\高架の橋を渡つたあはれさ、兩親の目には忘れる事の出來ない印象を殘した。
もう家族に心配はいらない、これから牛と云ふ事で其の手配にかゝつた。人數が少くて數回に牽くことは容易でない。二十頭の乳牛を二回に牽くとすれば、十人の人を要するのである。雨の降るのに然かも大水の中を牽くのであるから、無造作には人を得られない。某氏の盡力に依り漸く午後の三時頃に至つて人を頼み得た。
成るべく水の淺い道筋を選ばねばならぬ。それで自分は、天神川の附近から、高架線の上を本所停車場に出て、横川に添ふて竪川の河岸通を西へ兩國に至るべく順序を定めて出發した。雨も止んで來た。此間の日の暮れない内に牽いて終はねばならない。人々は勢込んで乳牛の所在地へ集つた。
用意は出來た。此上は鐵道員の許諾を得、少しの間線路を通行さして貰はねばならぬ。自分は驛員の集合してる所に至つて、かねて避難して居る乳牛を引上げるに就いて茲より本所停車場までの線路の通行を許してくれと乞ふた。驛員等は何か話合ふて居たらしく、自分の切願に一顧をくれるものも無く、挨拶もせぬ。
如何でせうか、物の十分間もかゝるまいと思ひますから是非お許しを願いたいですが、それに此直ぐ下は水が深くて
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