はない。もっともおはまは、出立という前の夜に、省作の居間にはいってきて、一心こめた面持《おもも》ちに、
「省さんが東京へ行くならぜひわたしも一緒に東京へ連れていってください」
というのであった、省作は無造作に、
「ウムおれが身上《しんしょう》持つまで待て、身上持てばきっと連れていってやる」
おはまはそのまま引き下がったけれど、どうもその時も泣いたようであった。おはまのそぶりについて省作もいくらか、気づいておったのだけれど、どうもしようのない事であるから、おとよにも話さず、そのままにしていたのだが、いよいよという今日になってこの悲劇を演じてしまった。
「あんまり人さまの前が悪いから、おはまさんどうぞ少し静かにしてください」
強くおとよにいわれて、おはまは両手の袖《そで》を口に当てて強《し》いて声を出すまいとする。抑《おさ》えても抑え切れぬ悲痛の泣き音は、かすかなだけかえって悲しみが深い。省作はその不束《ふつつか》を咎《とが》むる思いより、不愍《ふびん》に思う心の方が強い。おとよの心には多少の疑念があるだけ、直ちにおはまに同情はしないものの、真に悲しいおはまの泣き音に動かされずにはいら
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