れる身になったかな」
 おとよは改めて自分から茶を省作に進め、自分も一つを啜《すす》って二人はすぐに湖畔へおりた。
「どっちからいこうか」
「どっちからでもおんなしでしょうが、日に向いては省さんいけないでしょう」
「そうそう、それじゃ西手からにしよう」
 箱のようなきわめて小さな舟を岸から四、五間乗り出して、釣《つ》りを垂《た》れていた三人の人がいつのまにかいなくなっていた。湖水は瀲《さざなみ》も動かない。
 二人がどうして一緒になろうかという問題を、しばらくあとに廻《まわ》し、今二人は恋を命とせる途中で、恋を忘れた余裕に遊ぶ人となった。これを真の余裕というのかもしれぬ。二人はひょっと人間を脱《ぬ》け出《い》でて自然の中にはいった形である。
 夕靄《ゆうもや》の奥で人の騒ぐ声が聞こえ、物打つ音が聞こえる。里も若葉も総《すべ》てがぼんやり色をぼかし、冷ややかな湖面は寂寞《せきばく》として夜を待つさまである。
「おとよさん面白かったねい、こんなふうな心持ちで遊んだのは、ほんとに久しぶりだ」
「ほんとに省さんわたしもそうだわ、今夜はなんだか、世間が広くなったような気がするのねい」
「そうさ、
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