のことばを用いぬといえば泣き伏してしまう。
「斎藤の縁談を断わったのはお前の意《こころ》を通したのだから、今度は相当の縁があったら父の意に従えと言うのだ」
それをおとよはどうしても、ようございますといわないから、父の言《い》い状《じょう》が少しも立たない。それが無念で堪《たま》らぬのだ。片意地ではない、家のためだとはいうけれど、疳《かん》がつのってきては何もかもない、我意を通したい一路に落ちてしまう。怒《おこ》って呆《あき》れて諦《あきら》めてしまえばよいが、片意地な人はいくら怒っても諦めて初志を捨てない。元来父はおとよを愛していたのだから、今でもおとよをかわいそうと思わないことはないけれど、ちょっと片意地に陥るとわが子も何もなくなる、それで通常は決して無情酷薄な父ではないのである。
おとよはだれの目にも判るほどやつれて、この幾日というもの、晴れ晴れした声も花やかな笑いもほとんどおとよに見られなくなった。兄夫婦も母も見ていられなくなった。兄は大抵の事は気にせぬ男だけれどそれでもある時、
「おとッつさんのように、そう執念深くおとよを憎むのは一体|解《わか》らない。死んでもえいと思うく
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