前はむずかしやだからな、こうして念を押すのだ。異存はないだろう」
 まだおとよは黙ってる。父もようやく娘の顔色に気づいて、むっとした調子に声を強め、
「異存がなけらきめてしまうど。今日じゅうに挨拶と思うたが、それも何かと思うて明日《あす》じゅうに返辞をするはずにした。お前も異存のあるはずがないじゃねいか、向うは判りきってる人だもの」
 おとよはようやく体を動かした。ふるえる両手を膝《ひざ》の前に突いて、
「おとッつさん、わたしの身の一大事の事ですから、どうぞ挨拶を三日間待ってください……」
 おとよはややふるえ声でこう答えた。さすがに初めからきっぱりとは言いかねたのである。おとよの父は若い時から一酷《いっこく》もので、自分が言いだしたらあとへは引かぬということを自慢にしてきた人だ。年をとってもなかなかその性《しょう》はやまない。おれは言いだしたら引くのはいやだから、なるべく人の事に口出しせまいと思ってると言いつつ、あまり世間へ顔出しもせず、家の事でも、そういうつもりか若夫婦のやる事に容易に口出しもせぬ。そういう人であるから、自分の言ったことが、聞かれないと執念深く立腹する。今おとよの挨
前へ 次へ
全87ページ中41ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
伊藤 左千夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング