へきてくれ、おとよ」
「ハア」
 おとよは平生《へいぜい》でも両親に叮嚀《ていねい》な人だ、ことに今日は話が話と思うものから一層改まって、畳二畳半ばかり隔てて父の前に座した。紫檀《したん》の盆に九谷《くたに》の茶器|根来《ねごろ》の菓子器、念入りの客なことは聞かなくとも解る。母も座におって茶を入れ直している。おとよは少し俯向《うつむ》きになって膝《ひざ》の上の手を見詰めている。平生顔の色など変える人ではないけれど、今日はさすがに包みかねて、顔に血の気《け》が失せほとんど白蝋《はくろう》のごとき色になった。
 自分ひとりで勝手な考えばかりしてる父はおとよの顔色などに気はつかぬ、さすがに母は見咎《みとが》めた。
「おとよ、お前どうかしたのかい、たいへん顔色が悪い」
「ええどうもしやしません」
「そうかい、そんならえいけど」
 母は入れた茶を夫のと娘のと自分のと三つの茶碗《ちゃわん》についで配り、座についてその話を聞こうとしている。
「おとよ、ほかの事ではないがの、お前の縁談の事についてはずれの旦那《だんな》が来てくれて今帰られたところだ。お前も知ってるだろう、早船の斎藤《さいとう》よ、あの
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