くつも洗わない。おとよは思い出したように洗い始める。格好のよい肩に何かしらぬ海老色《えびいろ》の襷《たすき》をかけ、白地の手拭《てぬぐい》を日よけにかぶった、顋《あご》のあたりの美しさ。美しい人の憂えてる顔はかわいそうでたまらないものである。
「おとよさんおとよさん」
呼ぶのは嫂《あによめ》お千代だ。おとよは返辞をしない。しないのではない、できないのだ。何の用で呼ぶかという事は解《わか》ってるからである。
「おとよさん、おとッつさんが呼んでいますよ」
枝折戸《しおりど》の近くまで来てお千代は呼ぶ。
「ハイ」
おとよは押し出したような声でようやくのこと返辞をした。十日ばかり以前から今日あることは判《わか》っているから充分の覚悟はしているものの、今さらに腹の煮え切る思いがする。
「さあおとよさん、一緒にゆきましょう」
お千代は枝折戸の外まできて、
「まあえい天気なこと」
お千代は気楽に田圃《たんぼ》を眺めて、ただならぬおとよの顔には気がつかない。おとよは余儀なく襷をはずし手拭を採《と》って二人一緒に座敷へ上がる。待ちかねていた父は、ひとりで元気よくにこにこしながら、
「おとよここ
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