べきを、春愁堪え難き身のおとよは、とても春光を楽しむの人ではない。
男子家にあるもの少なく、婦女は養蚕の用意に忙しい。おとよは今日の長閑《のどか》さに蚕籠《こかご》を洗うべく、かつて省作を迎えた枝折戸《しおりど》の外に出ているのである。抑え難き憂愁を包む身の、洗う蚕籠には念も入らず、幾度も立っては田圃の遠くを眺めるのである。ここから南の方へ十町ばかり、広い田圃の中に小島のような森がある、そこが省作の村である。木立《こだち》の隙間から倉の白壁がちらちら見える、それが省作の家である。
おとよは今さらのごとく省作が恋しく、紅涙|頬《ほお》に伝わるのを覚えない。
「省さんはどうしているかしら、手紙のやりとりばかりで心細くてしようがない。こうしてお家も見えているのに、兄さんは、二人一緒になると決心しろって、今でもそう思ってて下さるのかしら」
おとよは口の底でこういって省作の家を見てるのである。縁談の事もいよいよ事実になって来たらしいので、おとよは俄《にわ》かに省作に逢《あ》いたくなった。逢って今さら相談する必要はないけれど、苦しい胸を話したいのだ。十時も過ぎたと思うに蚕籠《こかご》はまだい
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