た。おとよはもう洗い物には手が着かない。起《た》ってうろうろする。月の様子を見て梅のかおりに気づいたか、
「おおえいかおり」
 そっと一こと言って、枝折戸《しおりど》の外を窺《うかが》う。外には草を踏む音もせぬ。おとよはわが胸の動悸《どうき》をまで聞きとめた。九十九里の波の遠音は、こういう静かな夜にも、どうーどうーどうーどうーと多くの人の睡《ねむ》りをゆすりつつ鳴るのである。さすがにおとよは落ちつきかね、われ知らず溜息《ためいき》をつく。
「おとよさん」
 一こえきわめて幽《かす》かながら紛るべくもあらぬその人である。同時に枝折戸は押された。省作は俄《にわ》かに寒けだってわなわなする。おとよも同じように身顫《みぶる》いが出る。這般《しゃはん》の消息は解し得る人の推諒《すいりょう》に任せる。
「寒いことねい」
「待ったでしょう」
 おとよはそっと枝折戸に鍵《かぎ》をさし、物の陰を縫うてその恋人を用意の位置に誘うた。
 おとよは省作に別れてちょうど三月になる。三月の間は長いとも短いともいえる、悲しく苦しく不安の思いで過ごさば、わずか百日に足らぬ月日も随分長かった思いがしよう。二人にとっての
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