《しげ》れる梅の樹《き》も、上半の梢《こずえ》にばかり月の光を受けている。
おとよは今その倉の庇、梅の根もとに洗濯をしている。うっすら明るい梅の下に真白《まっしろ》い顔の女が二つの白い手を動かしつつ、ぽちゃぽちゃ水の音をさせて洗い物をしているのである。盛りを過ぎた梅の花も、かおりは今が盛りらしい。白い手の動くにつれて梅のかおりも漂いを打つかと思われる、よそ目に見るとも胸おどりしそうなこの風情《ふぜい》を、わが恋人のそれと目に留った時、どんな思いするかは、他人の想像しうる限りでない。
おとよはもう待つ人のくる刻限と思うので、しばしば洗濯の手を止めては枝折戸の外へ気を配る。洗濯の音は必ず外まで聞えるはずであるから、省作がそこまでくれば躊躇《ちゅうちょ》するわけはない。忍びよる人の足音をも聞かんと耳を澄ませば、夜はようやく更《ふ》けていよいよ静かだ。
表通りで夜番《よばん》の拍子木《ひょうしぎ》が聞える。隣村《となりむら》らしい犬の遠ぼえも聞える。おとよはもはやほとんど洗濯の手を止め、一応|母屋《おもや》の様子にも心を配った。母屋の方では家その物まで眠っているごとく全くの寝静まりとなっ
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