があるが、九十九里一帯の地には秋の声はなくてただ春の音がある。
 人の心を穏やかに穏やかにと間断なく打ちなだめているかと思われるは、この九十九里の春の音である。幾千年の昔からこの春の音で打ちなだめられてきた上総《かずさ》下総《しもうさ》の人には、ほとんど沈痛な性質を欠いている。秋の声を知らない人に沈痛な趣味のありようがない。秋の声は知らないでただ春の音ばかり知ってる両総の人の粋は温良の二字によって説明される。
 省作はその温良な青年である。どうしたって省作を憎むのは憎む方が悪いとしか思われぬ。省作は到底春の人である。慚愧《ざんき》不安の境涯《きょうがい》にあってもなお悠々《ゆうゆう》迫らぬ趣がある。省作は泣いても春雨《はるさめ》の曇りであって雪気《ゆきげ》の時雨《しぐれ》ではない。
 いやなことを言われて深田の家を出る時は、なんのという気で大手《おおで》を振って帰ってきた省作も、家に来てみると、家の人たちからはお前がよくないとばかり言われ、世間では意外に自分を冷笑し、自分がよくないから深田を追い出されたように噂《うわさ》をする。いつのまか自分でも妙に失態をやったような気になった。臆病《
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