ずわれを離れる。
「おとよさんちょっとえい景色ねい、おりて見ましょうか、向うの方からこっちを見たら、またきっと面白いよ」
「そうですねい、わたしもそう思うわ、早くおりて見ましょう、日のくれないうちに」
おとよは金めっきの足に紅玉の玉をつけた釵《かんざし》をさし替え、帯締め直して手早く身繕いをする。ここへ二十七、八の太った女中が、茶具を持って上がってきた。茶代の礼をいうて叮嚀《ていねい》にお辞儀《じぎ》をする。
「出花《でばな》を入れ替えてまいりました、さあどうぞ……」
「あ、今おりて湖水のまわりを廻《まわ》ってくる」
「お二人でいらっしゃいますの……そりゃまあ」
女中は茶を注《つ》ぎながら、横目を働かして、おとよの容姿をみる。おとよは女中には目もくれず、甲斐絹裏《かいきうら》の、しゃらしゃらする羽織《はおり》をとって省作に着せる。省作が下手《へた》に羽織の紐《ひも》を結べば、おとよは物も言わないで、その紐を結び直してやる。おとよは身のこなし、しとやかで品位がある。女中は感に堪《た》えてか、お愛想か、
「お羨《うらや》ましいことねい」
「アハヽヽヽヽ今日はそれでも、羨ましいなどといわれる身になったかな」
おとよは改めて自分から茶を省作に進め、自分も一つを啜《すす》って二人はすぐに湖畔へおりた。
「どっちからいこうか」
「どっちからでもおんなしでしょうが、日に向いては省さんいけないでしょう」
「そうそう、それじゃ西手からにしよう」
箱のようなきわめて小さな舟を岸から四、五間乗り出して、釣《つ》りを垂《た》れていた三人の人がいつのまにかいなくなっていた。湖水は瀲《さざなみ》も動かない。
二人がどうして一緒になろうかという問題を、しばらくあとに廻《まわ》し、今二人は恋を命とせる途中で、恋を忘れた余裕に遊ぶ人となった。これを真の余裕というのかもしれぬ。二人はひょっと人間を脱《ぬ》け出《い》でて自然の中にはいった形である。
夕靄《ゆうもや》の奥で人の騒ぐ声が聞こえ、物打つ音が聞こえる。里も若葉も総《すべ》てがぼんやり色をぼかし、冷ややかな湖面は寂寞《せきばく》として夜を待つさまである。
「おとよさん面白かったねい、こんなふうな心持ちで遊んだのは、ほんとに久しぶりだ」
「ほんとに省さんわたしもそうだわ、今夜はなんだか、世間が広くなったような気がするのねい」
「そうさ、
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